2025年7月30日水曜日

ロバの耳通信「夜行観覧車」「かずら野」

「夜行観覧車」(13年 湊かなえ 双葉文庫)

湊かなえの文章は読みやすい。普段着の言葉で語られるのはどこにでもありそうな普通の不幸な家庭。「夜行観覧車」は3つの家庭の内情が描かれている。視点を変えるごとに、自分のアタマが混乱するのがわかる。しかも、ほかの湊の小説と異なるのは、「母の思い」の重み。出てくるのは独りよがりの母親ばかり。子供たちの非行が、自らの不安の子供たちへの投射だと気付けよ。ハッピーエンドの終わり方が気に入らない。

いままで読んだ湊の作品では、不幸な子供たちの「思い」がいっぱい描かれていて、それが湊の小説の魅力でもあったと思う。きれいごとの表現を使えば傷つき易かったり、狡かったり、ワガママであったり、純粋であったりの部分を書き込んでいた。
それが、この小説の3つの家族の視点はすべて母親の女の冷めた視点だと感じてしまったのだ、ワタシは。つまりは、子供たちへの本質的な愛の欠落を感じてしまったのだ。無意識という悪意。

湊のデビュー作「告白」(08年)はまず映画、次に小説だったし、視点が変わることも少なかったし、スジで混乱することもなかったから、わがまま母親が暴走したり反省したりのワガママ物語の「夜行観覧車」ほどの疲れはなかった。

テレビドラマ化されているというから、そっちを見て、また本に戻ってこよう。テレビドラマでは母はどう描かれているだろうか。

「かずら野」(04年 乙川優三郎 幻冬舎文庫)

乙川の作品をいくつか読んできた。矜持のための今一歩を踏み出せない武士の物語だったり、思いを伝えられない切ない物語が多かったと思う。この「かずら野」は、物言うこともできず、男に翻弄され続けた女の物語である。
足軽の次女に生まれ、糸師(生糸生産者)の家に売られた女が、主人殺しの嫌疑をかけられたまま糸師の若旦那と落ちてゆく。丁寧に綴られるのは、糸師の元での生糸を紡ぎ、端糸を染めて縫物にし、塩を作り、鰯の干物を作るといった、当時の市井の人の暮らし。住処も松代、深川、行徳と彷徨う。女が、男に愛想をつかし、独り立ちを決心したその日に・・。
書評では、乙川らしからぬとか、チャレンジ失敗作とかの酷評が多かったが、ワタシには「流されてゆく女」の心情を男の乙川がここまで書けるのかとの驚きと感動を覚えた。いやいや、女の心情なんてのは乙川もワタシも、本当のところがわかっていないのに、勝手に想像しているだけかもしれないのだが。

2025年7月20日日曜日

ロバの耳通信「中国毒」「日本国債」

「中国毒」(14年 柴田哲孝 光文社文庫)

書評家による解説に”読者の日常の安寧を爆破する一冊””本を閉じてからの毎日を不安の中で過ごさねばならぬはず”とあった。ワタシも読み終わって、そんな恐ろしさを感じた。
異常に患者が増加したクロイツフェルト・ヤコブ病を調べてゆくうちに、原因と思われる「ある疾病」に行き着く。潜伏期間が数年、伝染しない代わりに発病は突然、しかも治療法なし。あまりに恐ろしくて、詳しくは書けないが、強い不安としてワタシの記憶に焼き付いてしまった。もう、ダメだ。忘れられない小説になった。


ノンフィクション作家である柴田が、自らフィクションだと主張する小説の中で、殺し屋やら腕利きジャーナリストといった虚構の物語で味付けをしながら、「事実らしきこと」を読者に丁寧に説明しながらストーリーに乗せてくれた。読者は500ページの終点で、積み上げられた「事実らしきこと」に、途方もない不安以外に感じることができなくなっていることに気付くのだ。

怖かったといえば「残穢」(ざんえ)(15年 小野不由美 新潮社文庫)も怖かったが、「中国毒」の怖さは、もっと、もっと「ありそう」な怖さだ。柴田の説得力に脱帽。「残穢」は、読まなくても死にはしないが、この「中国毒」は、読まなければならない作品だ。

「日本国債」(03年 幸田真音 講談社文庫)

経済小説のつもりで借りてきたのに読み進めるうちに特捜刑事と一緒の気持ちになって、犯人捜しにハマってしまった。なにより、この幸田真音(こうだまいん)という作家、初めて。読みなれたいつもの作家を追いかけているうち、とんでもない傑作を見落としていたのかと、激しく後悔。
国債の仕組みと官僚の関わり、証券ディーラーの債券市場での戦いと証券ウーマンの成長、特捜刑事の活躍など上下巻の長編にギッシリと話題や事件が詰め込まれているのだが、日本国債の課題という骨太のストーリーは、殺人未遂やらジンワリくる大人の恋を散りばめられても気持ちが散逸することを許さない。取引中のトレーダーのチャットなど、到底ありえないインサイダーまがいの話もでてくるが、多くはこの分野ではシロートであろう読者への著者による解説サービスだと思えばウレシイ。おかげで臨場感もたっぷり味わえた。
幸田真音か、まいったな。また読みたい本が増えた。

2025年7月10日木曜日

ロバの耳通信「ケープタウン」「TAKING CHACE/戦場のおくりびと」「ディファイアンス」

「ケープタウン」(13年 仏)

ケープタウンで殺人の捜査をする刑事フォレスト・ウィテカーとオーランド・ブルームが同僚や母を殺されながら麻薬カルテルと闘う。その麻薬は黒人撲滅のために開発されたもので、摂取により自殺や殺人を誘発するという。オーランド・ブルームはアル中で、別れた妻との間に年頃の息子がいて金が要る、フォレスト・ウィテカーは現地の下層階級ズールー族の出身という設定、幼い頃に犬をけしかけらたため男性器を失っていて、それでも売春婦のところへ通う。誰にでもある、心の闇。埃まみれのバラック、灯りは店の前だけ、角を曲がると暗闇、どこもそうだ。画面を見ていて、次に起きる怖いことが、もっと怖く、血生臭い。ナタやナイフも怖いが、表情も変えずそれを使う途方もないワルたちが心底ゾッとする。ケープタウンの闇をこうあからさまに描いていいのか。映画の底辺に、現地人の貧しさを同情しながら、未開人を馬鹿にし、そのくせ心底怖がっている自分と同じたくさんの観客の眼を感じる。少なくとも、二度見る映画ではない。

「TAKING CHACE/戦場のおくりびと」(09年 米)

イラク戦争のさなか、デスクワークに逃げ込んだという意識から罪悪感に苦しめられていたアメリカ海兵隊中佐(ケビン・ベーコン)が、亡くなった若い兵士の遺体を家族の元に送り届ける役を自ら引き受ける。戦死した兵士を家族の元に返す時は、必ず随行者が必要という決まりがあるらしい。

遺体が集められた軍の基地での納棺から家族のいる町の葬儀社までの道のりでは、随行者も含め航空会社や霊柩車での移動時に敬意を持って対応される。その厳格で決まりだらけの道行の一切を終え、自宅に戻った中佐が家族と抱き合うシーンが印象的だ。戦闘シーンも死亡シーンもないが、これは反戦映画であり、同時に国威高揚映画だ。ケビン・ベーコンが名優だと改めて、知る。

アメリカ国内で飛行機に乗ると、軍服を着た兵隊はエコノミークラスでもファーストクラスより優先搭乗案内される。それくらい国のために戦う兵士たちは、アメリカでは優遇される。奨学金制度や就業支援制度など多数の優遇制度がある。実態との乖離も指摘されてはいるようだが、どこかの国で、今はほとんど戦死者はいないものの、災害支援での事故死や過労死の話も聞く。国は彼らにどれくらい報いているだろうか。

前に見た映画で、兵士の死亡連絡は正装した軍人が家族の家を訪れるという決まりがあることを知った。第二次世界大戦中に留守家族が家の前に黒い車が止まり、中から正装した軍人(通常2名)が玄関口に歩いてくるのを見て、母親が息子の戦死を知るというシーンを見て、電報一本で戦死公報が届けられたどこかの国とはえらい違うなと感じたものだった。

「ディファイアンス」(08年 米)原題 Defiance

第二次世界大戦時のベラルーシのビエルスキ兄弟によるユダヤ人救出劇を描いている。原作は「ディファイアンス ヒトラーと闘った3兄弟」(09年 ネハマ・テク 武田ランダムハウスジャパン)。主役が英007俳優ダニエル・クレイグだし、よくあるアメリカ軍の大活躍でもないから、ハリウッド作品なのにとちょっと不思議な感じ。ナチスに蹂躙されながらも、ユダヤ人の見識の高さというかワガママを描いているから、誰かがこの映画で何かを訴えたかったのか、とか政治的背景も考えてみるのだが、思いつかない。