2016年9月21日水曜日

ロバの耳通信「私にはコレに向き合う勇気がない。ファイト!」

毎朝のことだが、気になることがある。

エレベーターから降りてきた車椅子の女性が駅員さんとホームで電車を待つ。通勤列車が入ってくると、駅員さんがホームと電車の間に渡し板を置き、車椅子の女性を電車に乗せる。その間、女性も駅員さんも一言も発しない。女性はその間、つまりはホームで電車を待つ間から、電車に乗るまでずっとスマホに向き合い、顔をあげることもない。ありがとうとか、いつもすみませんとかそういう言葉は「一度も」ない。ちょっとのしぐさや微笑みさえも。

駅員さんは同じ人ばかりではないから、この無言劇は特定の不仲な関係だからではないらしい。
最初のころは、その車椅子の女性は、耳か口も不自由なのかと思っていたが、何度か、お友達だろうか、ホームで親し気に話しているところに出合わせたが、普通に会話をしていたから口がきけないわけではないことは確か。

ワタシは車椅子で電車に乗ることはないから、この女性の立場にはなれないし、駅員さんでもない。それぞれの事情もあるだろうからとは思うが、気になってしかたがない。毎朝、毎朝だから、この無言劇を見るのが辛くなってきた。何かが間違っている気がするが、ワタシにはなにもできない。明日から、少し早めの電車に乗るようにしようと思う。朝から気分の悪い思いをすることはないと、逃げる自分に言いわけをしながら。

「ファイト」(中島みゆき)が好きだ。

2016年9月11日日曜日

ロバの耳通信「すべての映画が面白いわけではない」

「ザ・マスター」(12年米)。世界三大映画祭の監督賞を制覇した(wiki)とあった。
どこがいいのかわからない。半分も見ないうちに飽きてしまって、こんなに有名な映画なんだから、きっとこれからの話の展開が面白いのかもとか、鈍感私が感じることができないなにか深淵な背景があるのかもと、いくつかの映画評をチェックして「オモシロイとこ探し」しながら最後まで付き合ったが、それでもさっぱり。砂の女と添い寝するラストシーンまでワタシの理解力を超えていた。

主人公の精神を病んだ男を演じたホアキン・フェニックスも、カリスマ男役のフィリップ・シーモア・ホフマンもほかのたくさんの映画ではあんなにイキイキ、悪役らしくしていたのに、ふたりとも怪しげな酒に飲まれた酔っ払い。酔っ払いが嫌いだからそう思うのだろうが、映画の中の二人の酔っ払いは、箴言ともとれるかもしれないさっぱりわからないたわごとを延々と繰り返す。シラフでも繰り返される議論や感情の沸騰は、オトナのケンカの席に居合わせてしまったように、居心地の悪さを感じてしまうのだ。

楽しさや悲しみや怒りの共感のない映画で、残り少ない時間を割くのは時間がもったいない気がする。一歩下がって、この映画に共感を覚えることができない自分のアタマの悪さや理解力のなさや、感性の鈍さを認めるとしても、ワタシのそれはこれから改善されることはないのだから、どんなに前評判が良くたくさんの賞を総なめにした作品でも、ごめんだ。

「マルホランド・ドライブ」(01年米仏)は巨匠デビット・リンチ監督の傑作とされている。もしかしたら、と見ることをずっと楽しみにしていたのだけど、「やはり」ダメだった。ナオミ・ワッツも大根。作品に恵まれていないとはも思うが、「21グラム」(03年)ではドキドキするくらい、日本映画の二番煎じの「ザ・リング」(03年米)でさえあんなに魅力的だったのに。

リンチ監督の「ツイン・ピークス」(90年テレビドラマ、92年米映画)、「イレーザー・ヘッド」(76年米)も世界中の多くの知識人を大ファンにしたが、カルトを楽しむ度量の広さも小難しい作品をわかったフリをして楽しむことも、知識人の仲間にはいれないワタシにはできなかった。


「チャイルド44 森に消えた子供たち」(15年米)
「あの」リドリー・スコット製作だが、暗さ以外に彼らしいところのない映画、クヤシイ。スウェーデンの監督ダニエル・エスピノーザの力不足か。これだけの原作(トム・ロブ・スミス「チャイルド44」09年版「このミステリーがすごい!」海外編第1位)とのフレコミだったから、結局最後まで見てしまったが、もっとなんとかならなかったかとも思う。

主人公の国家保安省の捜査官の役、トム・ハーディーは、「マッドマックス 怒りのデス・ロード」(15年米)や「レヴェナント: 蘇えりし者」(15年米)、「欲望のバージニア」(12年米)<秀作-サウンドトラックだけでも聞く価値あり>のニヒルなタフガイさもなく、なんともとらえどころのない演技。ステキだったのは「欲望の・・」と同じカリアゲ7・3の髪型が決まっていたことだけ。トム・ハーディーはこの髪型が好きらしい。

その妻を演じたスウェーデン女優ノオミ・ラパスは「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」(09年スウェーデン)などのミレニアムシリーズの魅力的なシタタカ女とはうって変わって、これも何を考えているのかわからない役つくりとなった。愛していると言いながらそれが伝わってこない女優に用はない。大ファンのゲイリー・オールドマンの扱いもゼンゼン気に入らなかった、残念。オールドマンを使うのなら「レオン」(94年仏米)でジャン・レノに手榴弾で吹っ飛ばされるのを観客が喜んで見るくらいのカリスマ性を持たせてほしかった。主人公の上司役のフランスの名優ヴァンサン・カッセルだけが、いつものように冷酷無比でハマっていた。

ただ、ひたすらに旧ソ連の秘密警察の横暴さと底知れぬ怖さを強調したような映画になってしまったが、たぶん原作の意図とは違うと思う。仮に、そのステレオタイプの横暴さや怖さがホンモノだったとしてもロシア文化省が、本作について”史実を歪めている”と非難したとのこと、ふむふむ、さもありなん。内なる醜さを突き付けられるというのはつらかろう。とはいえ、権力の暗い面ばかりを見せたい反ロシアキャンペーン映画なら、ハッピーエンドなんかにしてほしくなかった。

ワタシは無類の映画好き。しかし、映画は面白いか、ドキドキするか、心を打つか、なにかの引き金になるか、好きな俳優、特に好きな女優が出ているか、ストーリーに共感するか、音楽がいいか、などなどワタシの好みじゃないと。

2016年9月8日木曜日

ロバの耳通信「月の上の観覧車」

「月の上の観覧車」(荻原浩 11年 新潮社 )どれもが珠玉というのだろうか、短編集のどれもが切ない。「胡瓜の馬」では、里帰りした同窓会で、失くした彼女とのことを知る。「ハの字の眉」と「な」がなんとも切ない。こんなわけのわからことを書いても伝わらないのはわかっているが、どうしてもココに書いておきたかった。昔の思い出なんて、本人しかわからない、否本人でさえ理解できていないことの積み重ねなのだ。

過日、焼きスルメのパックを買った。ワタシは歯が悪いのでふだんはほとんど買うこともないのだが、カミさんが食べたいと。口に入れて浸みだすスルメの味が、唾液と混じってなんだか旨い。ほとんど噛んでいないので、口の中でふやけたスルメはいつまでも旨みを口中に広げている。昔はよく食べたものだと、思い出し、いつまでも飲み込めないでいる。なつかしさに涙が出た。

恋と言うには幼すぎる思い出やそのあとの青春の苦さはいつまで忘れないでいられるのだろうか。残された時間がだんだん少なくなって、ほかのいろいろなことを忘れてしまっているのだが。

2016年9月2日金曜日

ロバの耳通信「警察小説」


図書館にリクエストを出して何か月か待ちで読むことができた「64(ロクヨン)」(13年横山秀夫 文藝春秋社)をスタートに「第三の時効」(02年)、「臨場」(05年)、「ルパンの消息」(91年)、「看守眼」(04年)、「深追い」(05年)と横山の警察小説にはまっている。キッカケは週刊文春の広告欄で「64(ロクヨン)」が紹介されていて、どうも映画化され(まだ、見ていない)話題になり、原作本をもう一度売り込もうというハラだったのだろうがキャッチコピーが秀逸で、翌日には本屋に走り手に取ってみたら、これは面白そう、と。

「半落ち」(02年)ー直木賞候補になりつつも、大揉めして横山が直木賞との決別宣言をした話題作ー04年に寺尾聰主演で映画化ーこれも良かったー以来の横山作品。


「後悔と真実の色」(09年貫井徳郎 幻冬舎)

書き出しがこうである。「申しわけ程度にいくつかの星が瞬いているだけの暗い夜空を見上げたとき、大崎通晃はなぜか『いやだな』と感じた」(本文のママ引用)。なんだかこれだけで、この本に引き込まれてしまった。幻冬舎の本で外れを経験したことがない。明るく、楽しい小説は殆んど読むことがない。暗いジメジメしたところを、なにかを引きずって歩くような小説が好きである。主人公がどこかに行き着いた時の到達感が好きなのか、引きずられて歩く可哀想な人を上から目線で見るのが好きなのか。



「地の底のヤマ」(11年西村健 講談社)

ハードカバー2段組の860ページは確かに読み応えがあったし、これだけの大作を軸をずらさずに書ける作家のチカラを感じた。かっての炭鉱の町大牟田(福岡県)の警察官の物語が大牟田弁の訛りで語られていた。ただ、主人公はこの刑事というより、ヤマ(炭鉱)を支えてきた男たちであり女たちであり、ガキ。だから、これらの人々がページの中で、石炭を掘り、酒を飲み、ケンカに明け暮れる、その間を警察官たちが自転車で駆け回る物語は、例えば新聞紙を一旦丸めてそれを広げて、その端に火をつければジワジワと炎が広がって行くような、一気に燃え広がる不安を感じながらも、同時に最後まで燃えて白い灰になるだろうという確信を持って読むことができた。決して、曖昧なままでは終わらない、警察小説がここに。

これは警察小説であると同時に、ワルガキたちの「スタンバイ・ミー」物語である。家庭を捨て、定年間近になって同じく警察官であった殺された父の犯人をやっと突き止めた警察官は、ただただ寂しい。

ページをめくるのがもどかしい位、どっぷり浸かった。もうこれほどの本には会えないような気がする。


「劇場版 MOZU」(15年邦画)

主人公の警視庁公安部の倉木警部を演じた西島秀俊は、妻子を殺された役柄とはいえストイックで恰好良すぎ、ワキ役の警視庁刑事部の大杉警部補の香川照之がゼンゼン刑事らしくなくてよかった。香川照之はドラマ「半沢直樹」(13年テレビドラマ)ですっかりファンになってしまい、私のアタマの中では「悪人に見えるが、実は善人とみせかけ、その実、極悪人」なのだ。スピンオフドラマの「大杉探偵事務所」では刑事をやめた大杉が怪しげな私立探偵になるというからそっちのほうが面白そうな気がする。

MOZUはドンパチだけでなく双子の殺し屋や架空の国ペナム共和国(撮影はフィリピンのマニラ)でのカーチェイスなど、ハチャメチャなシーンが続くから退屈はしない。この映画の原作は、「百舌の叫ぶ夜」「幻の翼」(逢坂剛 集英社文庫)なのだが、私は逢坂剛とは相性が良くないらしい。根がケチなので、手に入れた本は、我慢しても最後まで読む、気に入らなかったら同じ著者の別の本を探しても読むということで、多くの本を読んできたが、逢坂剛は何冊も途中で挫折している。