
見ず知らずの人の死を悼むという、本能的なことに多くの人が違和感を感じることについて。

「悼む人」の本編やこの続編でも、主人公静人の亡くなった他人を悼むという行為そのものがまるで悪いことをしているような扱いをされ、宗教かと問いただされるところが出てくる。私自身、犯罪現場などに設置された献花台で、被害者とは何の関係もないような多くの人が、遠いところから花を手向けるためだけに訪れるところをテレビで見ていて、見知らぬ人なのにと違和感を感じていたのだが、この「悼む人」など天童の著作を読むようになってから、亡くなった人を悼むという行為は自己満足だけのためでもなく、自然の欲求によるものだと思うようになってきた。「宗教の人」にそういう人が多いのならば、そういう宗教を持つことができたこと、それが自然なことなのだと思う。
無差別殺人、犯罪や他人の不注意とか不条理なことで亡くなられた人のことのことを思うと、神も仏もあるものかとも思う。私は間違っているのだろうか。
「原発ホワイトアウト」(15年 若杉冽 講談社文庫)
著者は現役官僚で「告発本」だと。霞が関の裏側や原発利権に群がる人々を上から目線で、腹立ちまぎれに言いたい放題。
なんだろう、この不快感。東大法学部卒で国家公務員I種合格だという著者の看板が本当だとして、訳知り顔でそちらの身内を揶揄しつつ聞きかじりの裏情報を教えてくれても、こちとら、小市民だからそういうハナシは面白くもなんでもない。唯一、興味深かったのは最終章の電源テロで冷却用電源を失った原発がメルトダウンしてしまうこと。
実際ににこういうことが起きたら、ディーゼル発電機が低温で稼働しないということを小説のなかでオレが指摘していたじゃないかとか、またまた上から目線の訳知り顔で偉そうにおっしゃるのだろう、この作家。とにかく、不快感をガマンしてまで読む作家ではない。
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