2025年6月29日日曜日

ロバの耳通信「静人日記 悼む人II」「原発ホワイトアウト」

「静人日記 悼む人II」(12年 天童荒太 文春文庫)

「悼(いた)む人」に続編があるとは知らなかった。読むと辛い思いのする本なのに、読み進めたい、感情の高ぶりに身を任せ、一緒に喜びたい、哀しみたい、泣きたい、そんな本がある。今まで読んだ「悼む人」(11年 文春文庫)、「永遠の仔」(04年 幻冬舎文庫)、「ムーンナイト・ダイバー」(16年 文芸春秋社)、「家族狩り」(07年 新潮社)など天童荒太の本はみなそうだった。高良健吾が静人役をやった「悼む人」(15年 邦画)も良い作品。


見ず知らずの人の死を悼むという、本能的なことに多くの人が違和感を感じることについて。

昔、ある葬式の席で私の親しい友人が、亡くなった人について、いなくなって悲しい、いい思い出しか残っていないと悲しみ悔やんでいた。とどめなく涙を流す私の友人を見ていた知人から「宗教の人か」と聞かれた。亡くなった人のことを思い出し悼んでいただけなのに、宗教って、そういうふうに使われるのかと不快な気持ちになった。

「悼む人」の本編やこの続編でも、主人公静人の亡くなった他人を悼むという行為そのものがまるで悪いことをしているような扱いをされ、宗教かと問いただされるところが出てくる。私自身、犯罪現場などに設置された献花台で、被害者とは何の関係もないような多くの人が、遠いところから花を手向けるためだけに訪れるところをテレビで見ていて、見知らぬ人なのにと違和感を感じていたのだが、この「悼む人」など天童の著作を読むようになってから、亡くなった人を悼むという行為は自己満足だけのためでもなく、自然の欲求によるものだと思うようになってきた。「宗教の人」にそういう人が多いのならば、そういう宗教を持つことができたこと、それが自然なことなのだと思う。

無差別殺人、犯罪や他人の不注意とか不条理なことで亡くなられた人のことのことを思うと、神も仏もあるものかとも思う。私は間違っているのだろうか。

「原発ホワイトアウト」(15年 若杉冽 講談社文庫)

著者は現役官僚で「告発本」だと。霞が関の裏側や原発利権に群がる人々を上から目線で、腹立ちまぎれに言いたい放題。
なんだろう、この不快感。東大法学部卒で国家公務員I種合格だという著者の看板が本当だとして、訳知り顔でそちらの身内を揶揄しつつ聞きかじりの裏情報を教えてくれても、こちとら、小市民だからそういうハナシは面白くもなんでもない。唯一、興味深かったのは最終章の電源テロで冷却用電源を失った原発がメルトダウンしてしまうこと。
実際ににこういうことが起きたら、ディーゼル発電機が低温で稼働しないということを小説のなかでオレが指摘していたじゃないかとか、またまた上から目線の訳知り顔で偉そうにおっしゃるのだろう、この作家。とにかく、不快感をガマンしてまで読む作家ではない。

0 件のコメント:

コメントを投稿