2025年7月20日日曜日

ロバの耳通信「中国毒」「日本国債」

「中国毒」(14年 柴田哲孝 光文社文庫)

書評家による解説に”読者の日常の安寧を爆破する一冊””本を閉じてからの毎日を不安の中で過ごさねばならぬはず”とあった。ワタシも読み終わって、そんな恐ろしさを感じた。
異常に患者が増加したクロイツフェルト・ヤコブ病を調べてゆくうちに、原因と思われる「ある疾病」に行き着く。潜伏期間が数年、伝染しない代わりに発病は突然、しかも治療法なし。あまりに恐ろしくて、詳しくは書けないが、強い不安としてワタシの記憶に焼き付いてしまった。もう、ダメだ。忘れられない小説になった。


ノンフィクション作家である柴田が、自らフィクションだと主張する小説の中で、殺し屋やら腕利きジャーナリストといった虚構の物語で味付けをしながら、「事実らしきこと」を読者に丁寧に説明しながらストーリーに乗せてくれた。読者は500ページの終点で、積み上げられた「事実らしきこと」に、途方もない不安以外に感じることができなくなっていることに気付くのだ。

怖かったといえば「残穢」(ざんえ)(15年 小野不由美 新潮社文庫)も怖かったが、「中国毒」の怖さは、もっと、もっと「ありそう」な怖さだ。柴田の説得力に脱帽。「残穢」は、読まなくても死にはしないが、この「中国毒」は、読まなければならない作品だ。

「日本国債」(03年 幸田真音 講談社文庫)

経済小説のつもりで借りてきたのに読み進めるうちに特捜刑事と一緒の気持ちになって、犯人捜しにハマってしまった。なにより、この幸田真音(こうだまいん)という作家、初めて。読みなれたいつもの作家を追いかけているうち、とんでもない傑作を見落としていたのかと、激しく後悔。
国債の仕組みと官僚の関わり、証券ディーラーの債券市場での戦いと証券ウーマンの成長、特捜刑事の活躍など上下巻の長編にギッシリと話題や事件が詰め込まれているのだが、日本国債の課題という骨太のストーリーは、殺人未遂やらジンワリくる大人の恋を散りばめられても気持ちが散逸することを許さない。取引中のトレーダーのチャットなど、到底ありえないインサイダーまがいの話もでてくるが、多くはこの分野ではシロートであろう読者への著者による解説サービスだと思えばウレシイ。おかげで臨場感もたっぷり味わえた。
幸田真音か、まいったな。また読みたい本が増えた。

2025年7月10日木曜日

ロバの耳通信「ケープタウン」「TAKING CHACE/戦場のおくりびと」「ディファイアンス」

「ケープタウン」(13年 仏)

ケープタウンで殺人の捜査をする刑事フォレスト・ウィテカーとオーランド・ブルームが同僚や母を殺されながら麻薬カルテルと闘う。その麻薬は黒人撲滅のために開発されたもので、摂取により自殺や殺人を誘発するという。オーランド・ブルームはアル中で、別れた妻との間に年頃の息子がいて金が要る、フォレスト・ウィテカーは現地の下層階級ズールー族の出身という設定、幼い頃に犬をけしかけらたため男性器を失っていて、それでも売春婦のところへ通う。誰にでもある、心の闇。埃まみれのバラック、灯りは店の前だけ、角を曲がると暗闇、どこもそうだ。画面を見ていて、次に起きる怖いことが、もっと怖く、血生臭い。ナタやナイフも怖いが、表情も変えずそれを使う途方もないワルたちが心底ゾッとする。ケープタウンの闇をこうあからさまに描いていいのか。映画の底辺に、現地人の貧しさを同情しながら、未開人を馬鹿にし、そのくせ心底怖がっている自分と同じたくさんの観客の眼を感じる。少なくとも、二度見る映画ではない。

「TAKING CHACE/戦場のおくりびと」(09年 米)

イラク戦争のさなか、デスクワークに逃げ込んだという意識から罪悪感に苦しめられていたアメリカ海兵隊中佐(ケビン・ベーコン)が、亡くなった若い兵士の遺体を家族の元に送り届ける役を自ら引き受ける。戦死した兵士を家族の元に返す時は、必ず随行者が必要という決まりがあるらしい。

遺体が集められた軍の基地での納棺から家族のいる町の葬儀社までの道のりでは、随行者も含め航空会社や霊柩車での移動時に敬意を持って対応される。その厳格で決まりだらけの道行の一切を終え、自宅に戻った中佐が家族と抱き合うシーンが印象的だ。戦闘シーンも死亡シーンもないが、これは反戦映画であり、同時に国威高揚映画だ。ケビン・ベーコンが名優だと改めて、知る。

アメリカ国内で飛行機に乗ると、軍服を着た兵隊はエコノミークラスでもファーストクラスより優先搭乗案内される。それくらい国のために戦う兵士たちは、アメリカでは優遇される。奨学金制度や就業支援制度など多数の優遇制度がある。実態との乖離も指摘されてはいるようだが、どこかの国で、今はほとんど戦死者はいないものの、災害支援での事故死や過労死の話も聞く。国は彼らにどれくらい報いているだろうか。

前に見た映画で、兵士の死亡連絡は正装した軍人が家族の家を訪れるという決まりがあることを知った。第二次世界大戦中に留守家族が家の前に黒い車が止まり、中から正装した軍人(通常2名)が玄関口に歩いてくるのを見て、母親が息子の戦死を知るというシーンを見て、電報一本で戦死公報が届けられたどこかの国とはえらい違うなと感じたものだった。

「ディファイアンス」(08年 米)原題 Defiance

第二次世界大戦時のベラルーシのビエルスキ兄弟によるユダヤ人救出劇を描いている。原作は「ディファイアンス ヒトラーと闘った3兄弟」(09年 ネハマ・テク 武田ランダムハウスジャパン)。主役が英007俳優ダニエル・クレイグだし、よくあるアメリカ軍の大活躍でもないから、ハリウッド作品なのにとちょっと不思議な感じ。ナチスに蹂躙されながらも、ユダヤ人の見識の高さというかワガママを描いているから、誰かがこの映画で何かを訴えたかったのか、とか政治的背景も考えてみるのだが、思いつかない。

2025年6月29日日曜日

ロバの耳通信「静人日記 悼む人II」「原発ホワイトアウト」

「静人日記 悼む人II」(12年 天童荒太 文春文庫)

「悼(いた)む人」に続編があるとは知らなかった。読むと辛い思いのする本なのに、読み進めたい、感情の高ぶりに身を任せ、一緒に喜びたい、哀しみたい、泣きたい、そんな本がある。今まで読んだ「悼む人」(11年 文春文庫)、「永遠の仔」(04年 幻冬舎文庫)、「ムーンナイト・ダイバー」(16年 文芸春秋社)、「家族狩り」(07年 新潮社)など天童荒太の本はみなそうだった。高良健吾が静人役をやった「悼む人」(15年 邦画)も良い作品。


見ず知らずの人の死を悼むという、本能的なことに多くの人が違和感を感じることについて。

昔、ある葬式の席で私の親しい友人が、亡くなった人について、いなくなって悲しい、いい思い出しか残っていないと悲しみ悔やんでいた。とどめなく涙を流す私の友人を見ていた知人から「宗教の人か」と聞かれた。亡くなった人のことを思い出し悼んでいただけなのに、宗教って、そういうふうに使われるのかと不快な気持ちになった。

「悼む人」の本編やこの続編でも、主人公静人の亡くなった他人を悼むという行為そのものがまるで悪いことをしているような扱いをされ、宗教かと問いただされるところが出てくる。私自身、犯罪現場などに設置された献花台で、被害者とは何の関係もないような多くの人が、遠いところから花を手向けるためだけに訪れるところをテレビで見ていて、見知らぬ人なのにと違和感を感じていたのだが、この「悼む人」など天童の著作を読むようになってから、亡くなった人を悼むという行為は自己満足だけのためでもなく、自然の欲求によるものだと思うようになってきた。「宗教の人」にそういう人が多いのならば、そういう宗教を持つことができたこと、それが自然なことなのだと思う。

無差別殺人、犯罪や他人の不注意とか不条理なことで亡くなられた人のことのことを思うと、神も仏もあるものかとも思う。私は間違っているのだろうか。

「原発ホワイトアウト」(15年 若杉冽 講談社文庫)

著者は現役官僚で「告発本」だと。霞が関の裏側や原発利権に群がる人々を上から目線で、腹立ちまぎれに言いたい放題。
なんだろう、この不快感。東大法学部卒で国家公務員I種合格だという著者の看板が本当だとして、訳知り顔でそちらの身内を揶揄しつつ聞きかじりの裏情報を教えてくれても、こちとら、小市民だからそういうハナシは面白くもなんでもない。唯一、興味深かったのは最終章の電源テロで冷却用電源を失った原発がメルトダウンしてしまうこと。
実際ににこういうことが起きたら、ディーゼル発電機が低温で稼働しないということを小説のなかでオレが指摘していたじゃないかとか、またまた上から目線の訳知り顔で偉そうにおっしゃるのだろう、この作家。とにかく、不快感をガマンしてまで読む作家ではない。

2025年6月20日金曜日

ロバの耳通信「クリーンスキン 許されざる敵」「王様のためのホログラム」

「クリーンスキン 許されざる敵」(12年 英)

ショーン・ビーンがイスラムのテロリストを追う情報部員、「あのシャーロット・ランプリングがその上役という設定。テロリストを追い詰めたら、上役がからんでいた証拠が出てきて、シャーロットもショーンに殺された。政治家がテロリストをダシにして、現政権からの脱却を図ろうとするなんてのは、EUから出るの、でないのと混乱が続く英の政権争いでは案外「想定内」なのかも。
若いイスラム教の青年、原題のClean Skin「前科がない」という意味で、この普通の青年がテロリストにされてゆくところや、希望のない暮らしのなかで陰のある青年に惹かれる英国の若い女性の描き方など、多人種国家ゆえの混乱の英国の今につながっている気がする。

ショーン・ビーンがほんのこの間まで夢中になっていた「ゲーム・オブ・スローンズ」(13年~ 米テレビドラマ)の「北の王」エダード・スタークをやっていて、その印象が強くて、ショーン、ここではテロリストと闘ってるのかとしばしアタマが混乱しつつも、しっかりミステリーを楽しめた。

「王様のためのホログラム」(16年 米)

元自動車会社の重役(トム・ハンクス)、業績悪化で退職。家も車も妻も失い、ひとり娘の養育費を稼ぐために3D会議システムの販売にサウジアラビアに。売り込み先のサウジの王様にはなかなか会えず、本国の3Dシステム会社から毎日、やいのやいのとセッツキの電話。つもり積もったストレスにまいってしまい、背中にできた脂肪の塊は悪化するわ、呼吸困難になるわの時に助けてくれたのが、離婚調停中のサウジ女医。3D会議システムの売り込みには失敗するも、女医と懇ろになりサウジに職を得て女医と新生活ーと、漫画のようなオカシな「大人の夢物語」。映画的には、サウジの中年女医が、若くも、キレイでもなんともなく、そうハッピーには思えないが、まあ、いいかと。
トム・ハンクスの「ビッグ」(88年)、「ジョー、満月の島へ行く」(90年)、「フォレスト・ガンプ/一期一会」(94年)、「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」(94年)など、面白みのある役柄も合うから、結構見ているし、シリアスなものも含めて、外れがほとんどないから、こうやって wikiで作品を掘り出しては、見ている。

サウジとの仕事をしたことがないが、エジプト出張では王様のようなエライひと、ただしこの国にはそんなのが何人もいて、まあ旧家の名士くらいの意味らしいが、そういう人たちと禅問答のような話をした憶えもあるから、トム・ハンクスの持って行き場のない焦燥感のような気持ちがわからないでもなかった。ちなみにワタシの商談も失敗。砂と不味いメシと暑いだけのエジプトは一度で懲りたが、「王様のためのホログラム」で見たまっすぐ伸びたハイウェイと宮殿のようなホテルは憧れる。サウジは王様とかのツテがあればぜひ行ってみたいともおもったりするのだが、そんなツテなどあるわけもない。

2025年6月10日火曜日

ロバの耳通信「名もなき塀の中の王」「処刑島」

「名もなき塀の中の王」(13年 英)

邦題を見て「蠅の王」(90年 米)とか「王の男」(05年 韓国)とかのナントカの王とか王のナントカとかという映画で面白い作品と出会っていたのでその類かなと勝手に想像していたらえらく違っていた。
原題のStarred upとは刑務所用語で、少年刑務所から途中で成人の刑務所に昇格したという意味らしい。で、この「名もなき塀の中の王」は青年が刑務所で入所検査を受けるところから始まる。英国の刑務所はいままでに見たどこの刑務所とも違っていた。最悪だと感じた「ミッドナイト・エクスプレス」(78年 米)のトルコの刑務所は別格にしても、なんだこの英国の刑務所の自由さは。タバコは自由だし、ほかの独房への訪問も。部屋にはラジカセどころかジュース、お菓子が積んであるし。これ見たら、ほかの国の囚人が憧れるんじゃないかな、実際のところはわからないのだが。
ともかくこの英国の刑務所に少年刑務所から移された青年が、同じ刑務所で終身刑として収容されていた父親と会い、最後は絆を取り戻すーとまあ、最後のオチはあるにしても、この青年が自分で起こす暴力、リンチのシーンの連続が酷い。邦題の「王」が、暴力に走る青年のことか、刑務所内で人を殺したために終身服役者として一目置かれていた父親か、刑務所のボスのことか、囚人を更生させようと無給で働くコンサルタントのことか、はたまた刑務所を仕切る所長のことか、誰を指すのか、或いはそのすべてを指すのかはわからない。「名もなき塀の中の王」残酷だが救いもある、見るべき映画のひとつだろう。

刑務所を題材にした映画は名作が多い。「ショーシャンクの空に」(94年 米)、「グリーンマイル」(00年)、「アルカトラズからの脱出」(79年)、「告発」(95年)、「ライフ・オブ・デビッド・ゲイル」(03年)、まあ、キリがないからこれくらいにするが、刑務所というところは人間の本性が出るところだ映画の題材にいいのだろうか。
邦画ではテレビドラマだが「破獄」(85年 NHK)の緒方拳が良かった。テレビ東京によるリメーク版は山田孝之が主人公を演じていたが迫力不足。看守部長をビートたけしを配するなどワキに芸達者がいたからなんとか見られたが、前作にも、もちろん原作(「破獄」吉村昭)にも及ばず。

「処刑島」(06年 英)wilderness

少年刑務所のワルたちを集め軍が訓練に使っていた島に送り再訓練をさせる。その少年刑務所でワルたちにイジメられ自殺した少年の父親(実は特殊部隊出身)が島に乗り込み復讐するーという、安易このうえもない設定。さらに、同じタイミングで少女感化院の札付もこの島で矯正訓練を受けているという、どうしようもない無理無理設定。
ワルや札付が次々に殺され、犯人のはずの元特殊部隊の男も殺され、じゃあ、誰が真犯人かと、謎解き風にもなっているが、そもそものストーリーに意味付けがされていないから考えるのもばかばかしくなるB級映画。
少年院のワルたちが、いかにもワルの顔で、どこかで見たような顔。こういう顔と街で会いたくないなーと、そんなことを考えていた。

2025年5月30日金曜日

ロバの耳通信「来る」「ヴァイブレータ」

「来る」(18年 邦画)

キャスティングを見て、かなり期待していた。原作「ぼぎわんが、来る」(澤村伊智 角川ホラー文庫) が、第22回日本ホラー小説大賞を受賞、マンガもチラ見だが結構怖そうだったし。
能天気男役で子育てブログを書くことに生きがいを感じている妻夫木聡も、育児ノイローゼで段々狂って行く母親役の黒木華も怖かったが、もっと怖いはずの「アレ」とか「それ」が、なかなか来ない。ボスキャラがなかなか出てこないのにシビレを切らしそうになったら、大巫女役松たか子が日本中の霊媒師(代表柴田理恵)やら韓国の祈祷師まで呼んでお祓いをしたから、おお最後に来るかと期待していたのに、なんだこりゃの感。血反吐のゲロシーンばかりのCGも飽きるばかり。大巫女の妹でキャバ嬢役の小松菜奈がメッチャ良かった、うん個人的に気に入ったというだけれど。ウラをかえせば、ほかに大した見るところもなかったということか。


「ヴァイブレータ」(03年 邦画)

古い映画なのに、昨日封切だったよと言われてもゼンゼン違和感なし。R15だけど、ゼンゼンいやらしくなくて、寺島しのぶが「いつもの」いい感じ。少し前に息子とテレビに出ていたけど、この映画の頃とあんまり変わらない。年をとらないのか、早くから老けていたのか。

疲れてしまったルポライターの女と長距離トラックの運転手。ロードムービーなんて言葉があるかどうか、ともかくふたりはハレでも雨でもないくらいの距離感を持ち、旅を続ける。見栄とか気取りとか、そんなヨソユキの言葉じゃない会話が、それでも出会いから少しずつ距離を縮めてゆくに従い微妙に変化してゆくのが分かり、いつのまにかどちらにも共感している自分に気付いた。

どこかの薄暗い大衆食堂で、向き合ってそうウマそうでもなく、フツーにメシを食ってる彼らがうらやましい。ワタシには持病があり先行きの不安もあるが、まあ平凡な暮らしができている。だからそう感じるのかもしれないが、こういう旅暮らしもちょっと憧れてしまう。まあ、3日くらいで飽きてしまうかな、根性ないし。題のバイブレータの意味はよく分からない。ググったら、トラックの振動とかココロが揺れるとか、まあ、いろいろ書いてあったけど、題なんてどうでもいいかと。
映画評は良くなかったが、好きだね、この映画。


2025年5月20日火曜日

ロバの耳通信「最愛の大地」「タイガーランド」

「最愛の大地」(11年 米)原題 In the Land of Blood and Honey

アンジェリーナ・ジョリーの初監督・脚本ということで話題になった”恋愛映画”。交際していたセルビア警察官とムスリムの女画家がボスニア・ヘルツェゴビナ紛争でセルビア将校とムスリム勢力という敵味方の関係に。見終わって、これアノ映画と同じスジじゃないかと。ナチ将校ダーク・ボガードとユダヤ女シャーロット・ランブリングの「愛の嵐」(74年 イタリア)Il Portiere di notte だ。倒錯の愛はいつでも後をひく。

結局「最愛の大地」も、盗作騒ぎやら人権問題で映画界を騒がせ、アンジェリーナの名前だけで鳴り物入りで公開されたもののヒットしなかったのは暗すぎる話だったせいか。アンジェリーナは嫌いだが、この映画、個人的にはカメラワークも音楽も良かったし、なにより何を考えているのかわからないムスリムの女画家を演じた女優に、「愛の嵐」のユダヤ女シャーロット・ランブリングと似た不可解な女の何かを感じ、忘れられない映画になった。

「タイガーランド」(00年 米)

タイガーランドはベトナム戦争時代の米軍の訓練施設。新兵の訓練施設の最終ステージにあたり、ベトナムのジャングルを再現していて米兵とベトコンに分かれた模擬戦をやる。それまでの訓練で疲労や不平、不満が溜まっているからつい本気になってしまう。
コリン・ファレルが飄々とした新兵になってまとめ役に。ほぼ無名の役者ばかりだから、ほとんどこれはコリン・ファレルのための映画。あんまり変わってないな。
実際の戦闘シーンはないが、お決まりの古参軍曹による新兵のシゴキやら新兵同志のイジメやらが延々。まごうことなき反戦映画。厭戦といってもいいか。

60年代の終わり。私はノンポリだったから、学内を練り歩くベトナム反戦のデモにも集会にも参加せず。ずっと後になって、それらに参加しなかったことで失ったもののことを考えた。停学になることも、怪我をすることもなかった代わり、何か大きなものを失ったような気がしたが、いまもそれが何かわからない。相変わらず、今もノンポリのままだ。