2016年7月19日火曜日

ロバの耳通信「冬の光」(篠田節子)


「冬の光」(篠田節子 15年文藝春秋社)出だしは篠田らしい真っすぐに差し出された刃のような鋭さ。ワタシも四国遍路を夢見たことがあったから、父の足跡をたどる娘と一緒に歩いた気がした。「旅」「出会い」「病い」篠田の創作の定番が、盤の上を歩くと不意に現れる碁石のように体に当たる。避けきれずワタシの体に傷をこしらえることになった碁石はなぜか「黒」のような気がする。

表紙の写真や装丁も美しく、図書館のプラスチックカバーがかかっているためか半年経っているとは思われないキレイさだ。なにより、ほんの少しだけ象牙色がかった良質紙に、凛と立っているような活字の美しさは、普段、薄汚れた古本や方眼紙の枡を埋めたような電子本の活字モドキに比べるべくもない。


本編の軸となるのは、企業戦士が密かに愛し続けた女性とその死。繰り返される出会いと別れは、これほど悲劇的でなければ自分の過去のなかの棘にも似ている。

本書の表題を見て思い出したのが、映画「冬の光」(63年スウェーデン)。イングマール・ベルイマン監督の名作。これはゼッタイ見たほうがいい。

篠田の「冬の光」では父、富岡康弘は「死者の声」を聞き信仰を得る。ベルイマンの「冬の光」の牧師トマスは自らの信仰に苦しむ。神はどんな顔をしているのだろうか。





2016年7月9日土曜日

ロバの耳通信「メアリー・カサット展」

横浜美術館に。暑い日が続くなか、曇り空で気温もそう上がらないだろうという天気予報を聞いて、ふだんはあまり寄ることもない、みなとみらい地区に思い切って出かけることにしたのは、前売り券を購入していた「メアリー・カサット展」とまた食べたいと思っていたランチメニューのため。

「あふれる愛とエレガンス。あのドガをも魅了」の前宣伝に惹かれて行ったメアリー・カサット展は、中年女性であふれていた。

館内は寒いくらいにエアコンが効いていて歩き回るうちに、膝が冷え、だるくなってしまった。気に入ったのは「桟敷席にて」(1878年)のドガに強い影響を受けました感の強い、印象派の油絵一点だけで、メアリー・カサットの作品の間に展示されているドガのエッチングや知らない作家の作品、影響を強く受けたという日本画が煩わしい。

作品を見るときは、まじりっけなしで緊張感を持って楽しみたい。展示室に「雑多に」(・・と思う)詰め込まれた作品は美術館の特設展示場としてはやむをえないとしても、解説のプレートの字の小ささと情報量の少なさにも閉口した。併記してある英語の解説文よりずっと短く編集された日本語の文字はさらに小さく、近づいて目を凝らさなければ読めず、同行したカミさんは「ジジババなんか来るなと言ってるじゃないのと」、うん同感。

メアリー・カサットは一回りすると飽きてしまって、常設展にまわった。そうだ、横浜美術館は「現代美術」がメダマだったのだと思い出し、膝の冷えを言いわけにしてすぐに出てしまった。抽象画や意味不明の彫刻などに何かを感じたりするような感性は、カミさんにもワタシにもない。

赤いくつ号(巡回100円バス)で駅前に出て、お昼をとっくに過ぎたステーキハウスは奥の禁煙席を頼んだのにタバコの匂いが流れてくる席。後ろで騒いでいた中年グループが騒がしかったが、ポテトフライをたっぷり添えたチキンステーキはいつもの味で満足。帰りに寄ったスーパーにセルフのコーヒーミルがあったので、店員さんに使い方を教えてもらいながらペーパーフィルター用に浅煎りを「ガガガ」、なんだか懐かしいコーヒーミルの音、昔はあちこちのスーパーにあったのに最近はあまり見なくなった。
カミさんが挽きたてのコーヒーを早くお家で飲みたいというから、スイーツも買って、できたばかりのバイパスを抜けて自宅へ。ひさしぶりのみなとみらい外出は、まあ楽しかったかな。

2016年7月6日水曜日

ロバの耳通信「残穢」(ざんえ)

「残穢 -住んではいけない部屋-」(ざんえ16年邦画)
原作を先に読んでたせいもあるのだろうが、近年の邦画の凋落を納得してしまうひどさ。小説家の私(竹内結子)も怖い話を持ち込んだ久保さん(橋本愛)もミスキャストというか必然性も個性も抹殺。原作でもちゃんとは出てこないオバケを鳴り物入りで出すは、効果音で脅すは、ふた昔前の時代劇の怪談映画と同じじゃないか。監督どーした、脚本どーした、原作者が可哀想な気がする。唯一の救いは和楽器バンドによる主題歌くらいか。数十秒のテレビCMのほうがよっぽど良かった。韓国で映画化してくれないかな(本気)。

原作は小野不由美の「残穢」(ざんえ)(12年ハードカバー、15年文庫 新潮社)。原作にオバケは出てこないが、読むんじゃなかったと後悔したほど怖かった。怪現象を追いかけていったら、何世代にわたり家やに憑いたりして、伝染病のように広がっていた呪いのようなものをドキュメンタリー風に追いかけてゆくというだけのハナシなのだが、コレを読めば古家や貸アパートは借りられなくなる。家人が寝てしまった薄暗い部屋でスタンドの明かりで読んでいると、自分の後ろが気になる。

電子本でも怖かったから、ページの紙魚(シミ)や行間に潜む狂気のようなものが気になることもある紙の本だと怖くて最後まで読めなかったかも。

2016年7月2日土曜日

ロバの耳通信「ブラインドマン」「13Hours:The Secret Soldiers of Benghazi」「オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分」

「ブラインドマン」(13年、仏)リュック・ベッソンの製作・共同脚本、監督がグザヴィエ・パリュだが、全編リュック・ベンソンらしいノワールの味付けが効いた味わい深い作品。「その調律は暗殺の調べ」という副題がついているが、退役軍人の盲目の殺し屋とそれを追うヤモメの刑事の関係は、フランスのノワール映画独特の男の繋がりのヨコ糸に、刑事を慕う部下の女刑事がタテ糸を絡め夜や雨のシーンの多い、暗いだけにおわりがちな作品に情感を醸しだしている。女刑事の役のラファエル・アゴゲがなんともイイ女で、この映画には刑事の上司の女署長、殺し屋が通う売春婦と3人しか女が出てこないのだが、それぞれにみんな魅力的なのがフランス映画らしい。

ラファエル・アゴゲといえば、こちらも脇役ながら好演していた「黄色い星の子供たち」(11年、仏)も、忘れがたい作品。第2次大戦中、フランス政府によるユダヤ人一斉検挙を題材にした作品で、「ブラインドマン」と同じく、小劇場の封切りがとっくに終了したためネット動画かDVDで見るしかないが、機会があればぜひ見てほしいと思う。



「13 Hours: The Secret Soldiers of Benghazi」(16年、米、日本未公開)12年にリビア・ベンガジのアメリカ領事館が襲撃された事件が題材。CIAの傭兵<軍事組織GRS(Global Response Staff)>が主人公にはなっているが、味方も敵もリビア人のドンパチだらけ、何をどう理解すればよいのかという動揺のなかでドンパチ映画を’楽しんで見ている’自分がいた。この映画の説明がちょっと難しいので、新聞の論評を勝手に引用。実のところ、この論評もわかりにくいのだが。

本作「13 Hours」は、リビア人達に加えアメリカ政府を悪者として描いている。そして、マイケル・ベイは、その感度の鈍い映画スタイルにとっては、一貫性など前提にされないという事を、証明し続ける事で自身のキャリアを構築してきた人物でもあり、その部分こそが、影の力からの脅威に、一つの姿勢を表せる要素なのだと言えるだろう。その意味でいって、彼がここでおそらく批判している、ほとんど顔もみせない政府の人間達を、彼自身が反射している訳でもあり、その姿はまさにアメリカ人そのものと言えるのだ。(The New York Times)




「オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分」(Locke 13年英)不倫し妊娠させてしまった同僚の出産に立ち会うためにハイウェイを急ぐ主人公ロックが車中から、やりかけの仕事の部下や上司、病院の医師、不倫を告げられた妻、息子など多くの人々と携帯で話をするというそれだけのハナシなのだが、限られた時間の中で携帯で話をすることしかできない状況はデジャブがありなんだか身につまされた。

86分の映画のすべてがハイウェイを走る車、車中、流れる風景だけの映像。キャストはロックだけ。あとは携帯の音声のみというラジオドラマのようだが緊張感のある作品。動画サイトでも見れるので、雨の夜、一人で見る映画としてぜひ勧めたい。