2017年12月25日月曜日

ロバの耳通信「ゲット・アウト」

「ゲット・アウト」(17年 米)

親しくなった白人娘の実家に挨拶にゆく黒人青年。娘の実家は南部の素封家。青年はまだ無名の写真家で孤児。白人金持ちファミリーの中に一人のふつうの黒人。一家で歓迎されているようだが、コイツ何しに来たんだと、ジロジロ見られ、ヒソヒソと陰口をたたかれているーような気がする、と思わせて・・ウラがあり、その実とても歓迎されているのだ。オイオイ、なんだかおかしいぞ、この展開。娘の母親、催眠術を使う心理療法士役の名優キャサリン・キーナー(「マルコビッチの穴」(01年))の微笑んだ顔がめっちゃ怖い。物分かりよさげな医者ー娘の父も怖い。娘の弟も怖い。みんな、みんな怖い。

ストーリー展開と効果音楽がジワジワと「予想できない不安」だから、心底怖い。人種差別問題を正面に押し出した社会派映画ではないが、アメリカの拭い切れない黒人差別の歴史は怪談映画の沼に浮いた戸板の裏。ひっくり返せば必ずオバケがいる、暗い廊下の奥にはいつも何かが潜んでいる。この映画を普通にみてるとヒドイ目にあうよ、脳を開くシーンとか、とんでもないシーンまであるホラー映画だから。白人は怖いよ。最近見たなかじゃあ、1、2番の怖い映画かな。

ゲット・アウトは「出ていけ!」、セリフにもでてくるが、文字通りの意味、お前らは入れてやらん。

2017年12月23日土曜日

ロバの耳通信「草にすわる」「心に龍をちりばめて」

「草にすわる」(06年 白石一文 光文社文庫)「心に龍をちりばめて」(11年 新潮文庫)

「草にすわる」には「草にすわる、砂の城、花束」の3中編、「心に・・」は女性が主人公で同級生の元ヤクザとの邂逅を描いた、登場人物を思い切りステレオタイプに描いたマンガや映画のような作品。設定は嫌いじゃないが。

「草にすわる」はまあ、心中物語をハッピーエンドで楽しめたからいいが、初めての白石一文の主題が自殺、病院や継子だと知った。カミさんが白石作品は暗いからキライだと言っている理由もなんとなくわかる。

主人公の何もしないと決めた5年間にちょっとあこがれたが、心中相手の曜子(なぜか作品中ではずっと”さん”付け)が、私にはちっとも魅力的でなかった。どの小説でも重要な役割を持ち描かれる女性像は、だいたいは魅力的に思えるのだが、白石の作品に出てくる女性はほとんど私のダメな「しっかり」タイプ。うーん、好みが違うということだけなのだろうか。「草にすわる」では、若くして妻子を残し30歳で死んだ詩人八木重吉と残された家族の不幸を引用しているが、作品の主題もこれ。八木重吉の悲しさは伝わるが、白石の気持ちは伝わらない。「砂の城」は文学者が自説を述べるというだけの作品で、白石の意図がコレだとしたらつまらない。「花束」は白石が文芸春秋で記事を書いていた経験で書いたらしい経済小説で、この手の作品に必要な「臨場感」「切迫感」が思い切り欠けていて入り込めなかった。どうして「花束」なんて名前にしたのか。場違いな花束にこじつけられたエンディングのせいで作品がダメになっている。ちっ(舌打ち)。

「心に・・」の幼なじみの元ヤクザ優司がやたらと格好良い。ふるさとと縁が切れてしまった私にはいない幼なじみがうらやましい。優司に”俺は、お前のためならいつでも死んでやる”と言われた美貌の主人公の「魅力」が描き切れていないのが残念。

ハイライトの主人公が、婚約相手の母親にタンカを切るところ、うんうん、気持ちはわかるけど、ほぼ2ページを費やす長いタンカはやたら饒舌。声高の長いだけのタンカは相手を怒らせるだけで、自分の気持ちを伝えることも、自分の高ぶりを収めることもできない。

と、白石には文句タラタラだが、この4作品の出来、不出来を考えると、「当たり」もありそうな気がする。ほかの作品も読んでみよう。

2017年12月14日木曜日

ロバの耳通信「64(ロクヨン)」

「64(ロクヨン)」(16年 邦画)
同名の原作(横山秀夫 15年 文春文庫刊)を先に読んで、書評記事からNHKテレビドラマや映画があることを知ったが、テレビドラマは主人公役をはじめ配役が好みに合わず、映画は前後編合わせて4時間ということで躊躇。猛暑続きの日々、出かけるのも億劫。エアコン効かせて遮光カーテン閉めてひとり映画会。

主演の佐藤浩市をはじめ錚々たる配役。キーとなる人物にキチンとスポットが当たっていたから登場人物の多さも気にならず、小田和正の「風は止んだ」が流れるエンドロールまでしっかり楽しませてもらった。映画の結末は原作のソレよりひねったシナリオで久松真一(脚本)の面目躍如といったところか。原作ー映画と二度楽しめた。登場人物の顔と性格を脳に刷り込んだところで、もう一度、原作を反芻したいと思う。横山秀夫はいい。

2017年12月11日月曜日

ロバの耳通信「恥辱」

「恥辱」(07年 カーリン・アルヴテーゲン 小学館文庫) 

なんだかイヤらしい名前の本で図書館の貸出申込みの際ちょっと気になったが、図書館のオジサンはいつものようにシレっと貸してくれた。当たり前か。直訳は「恥」だが、同名で有名な本がある(89年 サラマン・ラシュディ 早川ノベルズ)からか。「隠し事」くらいにしてほしかった。

カーリン・アルヴテーゲンはスウェーデン版「パトリシア・ハイスミス」といったところか。うん、もっと怖いが。
「喪失」(04年 同 シリーズ2作)が私にとっての初見。暗い物語で、奥に行けばゆくほど恐ろしいものが出てきて、帰りの道も分からなくなり途方に暮れてしまって、この一作でオシマイにしていたのが約10年前。まだ、自分に力が漲っていて、怖いもの見たさを探さなくても十分怖いことが溢れていたから、それ以上を求めなかったのだろう。先がそう長くなくなった今、畏れや、もろもろへの躊躇がなくなってきたのは良いことか、悪いことか。

「恥辱」(シリーズ3作)は兄の死に囚われた完璧主義者の女医がオカシクなってゆくメインストーリーに加え、肥満のためヘルパーの力を借りなければ暮らせなくなった女の物語で共通する「孤独」が限りなくて怖い。著者も若いころに兄を事故で亡くし鬱に苦しんだというから、感情描写は真に迫る。

「裏切り」(06年 同 シリーズ4作)の主題は表題そのもの。2組のカップルが不倫の疑いで憎しみ合うという出口のない物語。圧巻は夫の妻への一言「きみといても楽しくない」、こう言われたら確かに返す言葉はないであろうし、私なら途方にくれるに違いない。シリーズ1作の「罪」(05年)、シリーズ5作の「影」(9年)があるし、ほかにも何作かあるらしいが、読んでゆくほど棘(トゲ)が刺さってゆくような物語は疲れるから、しばらくお休み。このシリーズを訳している柳沢由美子の訳のうまさには感心。女性原作+女性翻訳の組み合わせは、私にとっては鬼門なのだが、アルヴテーゲンと柳沢は相性も良いらしい。

柳沢の翻訳で秀逸だと思うのは「笑う男」(05年 ヘニング・マンケル 創元推理文庫)。下手な翻訳のために面白い作品がワヤになった作品を知っているが、柳沢は実にうまい。ベストセラーになった「笑う警官」(13年 角川文庫)など「マルティン・ベックシリーズ」「ロセアンナ」から「テロリスト」まで マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー 共著)も柳沢の翻訳。

ずいぶん昔の話だが、このマルティン・ベックシリーズ」の英語版の何冊かを辞書片手に苦労して読んだ覚えがあり、当時仕事で付き合いのあったスウェーデンの人にマイ・シューヴァル&ペール・ヴァールーという作家を知っているかと尋ねたら、破顔一笑、スウェーデンではとても有名な作家で、日本人がなんで知っているんだと、ハグされるほど喜んでもらえたのを思い出した。
 

2017年12月7日木曜日

ロバの耳通信「あの頃、君を追いかけた」

「あの頃、君を追いかけた」(那些年,我們一起追的女孩 11年 台湾)


この年になっても、ふとしたことから甘酸っぱい思い出に浸ってしまうことがある。そういう映画。5人の男子高校生と口うるさい女子優等生役(ミシェル・チェン)の物語で、「青春は恥と公開と初恋で作られる」というのが日本版予告編のキャッチ。なんだか照れくさいのだが、こんな自分にも青春はあったのだ、間違いなく。

「改札口の紺色の群れに目を凝らし」

ワタシの場合、電車通学だったから帰りが後先になってもどちらかが待っていれば駅で必ず会えた。ちょっとした行き違いが重なり疎遠になったあとも、顔を見たくて改札口から流れて来る紺色の制服の中に君を探したものだ。台湾の男子高校生のように、にぎやかでも元気でもなく、ただの根暗のガリ勉だったから。そう、いまのストーカーに近い。

来年には日本でのリメイク版が出て、男子高校生のあこがれの優等生役は乃木坂46の斎藤飛鳥だと。うーん、ちょっと可愛すぎかな。ミシェル・チェンのちょっとナマイキな姉さん風が出せるといいのだが。

テレビの懐かしの歌特集の前宣番組に出演していた太田裕美を見て「木綿のハンカチーフ」(75年)の出だしの旋律を思い出した。つながって「春なのに」(83年 柏原芳恵)も記憶の底から出てきた。いろんなことを一度に思い出して、ちょっと鼻がキュンとなった。