2018年1月28日日曜日

ロバの耳通信「旅へ」

「旅へ」(99年 野田知佑 文春文庫)

紙の本の良いところというべきか、悪いところというべきか、どこを読んでいるかがわかっているから、残りのページの厚さが薄くなるに従い、辛くなるということ。電子本だと、ページ数や、どこら辺を読んでいるかのメータのようなものがでるから、同じように思えるのだが、面白い物語の残りのページの厚みが段々減ってゆく辛さは、紙の本だけで感じる。

「旅へ」はガク(「カヌー犬・ガク」(97年 小学館文庫))の名前を世間に知らせた野田知佑の青春時代の彷徨を描いた自伝。同じ世代を生きてきたから、うん、うんよくわかる。写真もいい。

放浪することに、ずっと憧れていた。大体のワカモノはだいたいそうなのではないか。一歩踏み出す勇気もないワタシは結局週末にちょっとした「遠出」をするのが精々。幼いときは自転車で、学生時代は電車で、結婚してからは自分の時間がすっかりなくなってしまって、出張先の知らない町を歩き回るくらい。そして、平凡な暮らしにいつもイソイソと戻るのだった。

ケチケチ旅行に憧れ、マイレージを貯めて香港へケチケチ旅行をしたことがある。ネットで探した安宿はエアコンの調整もできない部屋で、ガラガラとうなるエアコンの音がうるさく、寒くて夏だというのに毛布にくるまって寝たし、屋台とコンビニのメシも続くと侘しいだけでちっとも楽しくなくて、帰りの便の機内食の温かさと旨さに泣きそうになった。時間やお金に少し余裕ができた今、飛び出す勇気はまるでなくなって、イジイジと今の暮らしにしがみついている。昔はあんなに憧れた、外国の知らない町での暮らしや無人島暮らしが、ずっと、ずっと遠くなっていることに気付く。どこにも行けない、またどこへも行きたがらない自分が哀しい。

青春を手探りして進むような、「放浪記」(79年 林芙美子 新潮文庫)、「深夜特急」(94年 沢木耕太郎 新潮文庫)、「荒野へ」(07年 ジョン・クラカワ 集英社文庫)と、皆私の愛読書だ。といっても、悲しき団地暮らしだから置いておけるスペースもなき、面白いから読んでみな、とひとにあげては、また読みたくなって、ブックオフで買ってはひとにあげてをくりかえし、結局最近は図書館にお世話になっている。それらも段々読まなくなってきている。放浪もできなくなった、ワタシは何を失ったのだろう。

2018年1月16日火曜日

ロバの耳通信「キングスマン:ゴールデン・サークル」「スターウォーズ/最後のジェダイ」


「キングスマン:ゴールデン・サークル」(17年 英)

当たった「キングスマン」(14年 英)の続編ということで、期待していたのだが、どうしようもない駄作。「キングスマン」はストーリーの新鮮さや英国伝統の007張りの道具立てで、英国らしいウイットに富んだ一流のエンタメ映画だったのだが、続編はハリウッドに媚びを売ったのか米俳優、しかも老齢(うん、落ち目とは書かない)のジュリアン・ムーア、ジェフ・ブリッグスやら張りを失ったハル・ベリーやらを無理無理押し込んだためにハチャメチャコメディに落としてしまった。007シリーズが62年から24作を重ね、今でも色褪せていないのはストーリーの面白さだけではない、緻密な映画作りにより観客を飽きさせない「地道な努力」があるのではないかと思う。このシリーズ、あと何作か続けられると思うが、「英国流」に戻らないなら、もう見ないぞ。


「スターウォーズ/最後のジェダイ」(17年 米)

スターウォーズは第一作「スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望」(77年 テレビ放映医は83年)以降、新作が発表されるごとにチャレンジしようと見始めるのだが、被り物をした「敵の大将」(シリーズ物ながら登場人物も名前などゼンゼンおぼえられない)やら、異生物やらロボットやらのいわゆるスターウォーズおなじみの「キャラ」に愛着を感じる前にアホらしくなって放り出してしまうから、どの作品も最後までどころか、開始からせいぜい15分というところか。毎回、大層な音楽と解説の大きな字幕が出てきてまずウンザリ。それでも今回は「最後のジェダイ」となってるし、ルーカス(監督)もそろそろ終わりかと30分くらいガマンして見たのだが、それが限界。うーん、どうしてもダメだ。ヒットしていると聞くが、変り者のワタシには体質に合わないのだろう。

2018年1月9日火曜日

ロバの耳通信「DUST 特別法第001条」

「DUST 特別法第001条」(09年 山田悠介 幻冬舎文庫)

図書館の新刊の棚にあって今年のゴム印。新刊ではなかったのだが、好みの幻冬舎の真新しい本だったからちょっとワクワクしながら手にとって見返しの著者紹介をチェックしたら「リアル鬼ごっこ」(01年)の著者だと。「リアル・・」がテレビで見て面白かったから期待したのだが、うーん。

小説にはどんな奇想天外のストーリーでも読者を納得させるディテイルが欲しいと思う。ニートは500日の島流しの決まりがあり、島でのサバイバルと、島から帰ってきてての息子探しがストーリー。はやりのサバイバルゲームに無理やり落ちを付けようとしても工夫がないと面白くはない。食うや食わずの少女に子供を産ませたり、19年後の復讐劇やら、題材は斬新で社会性もあり、面白いのだからもっと書きようがなかったのかと残念。20余年の物語が押し込められた500ページに付き合わされた読者はどこにも、誰にも共感を得ることができず、切れの悪いラストで持って行くところのない不満を飲み込んだ。

あとがきを苫米地英人を書いているのだが、批判ではないと断りつつ苫米地流の勝手な解釈で、「世界の戦争と差別をなくす」という苫米地のメッセージをここで書きたいがために結局、著者に迎合している。なんてあとがきだ。幻冬舎文庫にも外れがあるということか、読んだ時間が無駄だったことが悔しい。

2018年1月7日日曜日

ロバの耳通信「ブレードランナー2049」

「ブレードランナー 2049」(17年 米)

封切り時(10月末)に見逃がして口惜しい思いをしていたが、やっとネットに出た。オリジナルの「ブレードランナー」(82年 米)の時は、よくわからないけれど、なんだかワクワク、ドキドキしながら見たことを今でも憶えている。一言でいえば「新鮮」

ただ、「オリジナル」はストーリーがぶっ飛んでいて、ゼンゼン意味不明だったのだが、今回の「2049」も同じく、見終わってからwikiの解説を読むまで、まあ、解説を読んでもよくわからないところがあったが、これもドキドキ、ハラハラで面白かった。オリジナルでは好演したハリソン・フォードも、「2049」ではただの添え物。良かったのは主演のライアン・ゴズリング、バーチャル恋人役のキューバ女優アナ・デ・アルマス(なんてカワイイのだ)、音楽はハンス・ジマー。待て待て、面白かったけれど、「オリジナル」を見ていない世代でも私のように楽しめたのだろうか。「オリジナル」は封切りからずっとあとで評価された。ブチ切れのシナリオや哲学的な啓示はDVDになってもジワジワ味わうことができたからなのだが、「2049」はどうだろう。2時間44分は長い。ストーリーに辻褄をもたせるより、ダラダラをブチ切って、もっと圧縮したほうがよかった気がする。タイトルバックの流れる映画館の暗闇のなかで、あるいは帰りの電車の中で「あのシーンには、どういう意味があったのだ」と思いをめぐらせるのも映画の楽しみなのだから。ふふふ、原作はフィリップ・K・ディック、簡単にわかってたまるものか。

2018年1月4日木曜日

ロバの耳通信「嘆きのピエタ」「その怪物」

「嘆きのピエタ」(12年 韓国)

はじめてこの映画を見たときのことを忘れない。サラ金の取り立て屋とその母親の物語なのだが、余計な説明も気取りもなく淡々と描かれたナマの暴力。鬼才監督キム・ギドクが自腹で、出演者もノーギャラで作ったいう。一瞬のシーンのムダもない。「いきなり」の衝撃。これが韓国ノワールかと、この作品からワタシのキム・ギドクを探しての彷徨がはじまった。

女子大生に一目惚れをしたヤクザの物語「悪い男」(01年)、韓国駐留の黒人米兵との混血児がいじめを受ける「受取人不明」(01年)、ドアのチラシ貼りをしながら不在の家を探し、そこに住み着く男の物語「うつせみ」(02年)、ヨーロッパ旅行のために援助交際をする女子高生「サマリア」(04年)、<残酷すぎてここにはとても書けない>近親相姦を扱った「メビウス」(13年)、復讐劇「殺されたミンジュ」(14年)など、どれも韓国が対峙する社会問題。どれも答えがなく、ただ直視するのが精いっぱいだ。日本も同じ。最新作「The NET 網に囚われた男 」は予告を動画サイトで見れるだけだが、脱北者を扱ったもののようだ。見たい。

「その怪物」(14年 韓国)

監督はキム・ギドクではない(ファン・インホ)のだが、これも韓国ノワール。

姉を殺されたアタマの少し弱い少女キム・ゴウンが結構かわいい。サイコパスのイ・ミンギから逃げる名子役アン・ソヒョンも可愛い。ふたりの少女のやり取りは、漫才。挿入歌は品がない(邦訳でも十分伝わる)が、スプラッタ映画に救い。

暗いところからぬっとでてくるイ・ミンギを見てたら、村本某(ブログ炎上芸人)を思い出した、カミさんはゼンゼン似てないというのだが、ワタシはメが似てると思うのだけど。

ワタシにとって韓国のイメージはこうだ。血、家族の絆、暴力。韓国映画や韓ドラがほとんどすべて。仕事で何度か行ったくらいで、本物の韓国はほとんど知らない。親しくなるということは兄弟になること。兄弟は何でも許す、遠慮してはいけない。親しくなった瞬間からプライバシーがなくなるからね、言っとく。

2018年1月2日火曜日

ロバの耳通信「モルヒネ」「青い約束」「陽だまりの偽り」

寒い夜、早めに布団に入り枕にLEDライトを置いて冷たくなった手を替えながら初めての作家たちを読んでいる。

「モルヒネ」(06年 安達千夏 祥伝社文庫)

入院してきた末期がん患者はホスピスの勤務医の元恋人。死にゆく元恋人に心が揺れるという、筋を書き出せば少女漫画にも出てきそうな展開なのだが、安達にかかると息が詰まりそうになるくらいやるせない。そう、全編やるせないのだ。暗いところから明るいところを覗き見するが、片足が踏み出せずにいる安達の臆病さが伝わってくる。ほかの作品も読んでみたい。デビュー作「あなたがほしい」ではすばる文学賞を受けているという。ますます、読みたい。
あとがきを作家の島田雅彦が安達への私信の形で書いていて、”あなたの小説は乾いた悲しみや思わずため息が漏れるようなやるせなさに満ちている”と。近年、安倍首相を批判したりで物議をかもしている島田雅彦だが、こんなに共感できるあとがきを書ける作家なら島田の作品も読んでみたい。

「青い約束」(12年 田村優之 ポプラ文庫)

文庫化にあたって「夏の光」を改題したという。なんてことをするのだ。「夏の光」だったほうが、ラストも輝くのに。
証券アナリストと新聞記者として20年ぶりに出会った親友の二人。高校生の二人を引き裂いたのは共通の恋人の事故死。過去の事実を明かした新聞記者は末期がんで死ぬのだが、青春ものを得意とするポプラ社らしく、明るく終わっている。残ったほうはいいのだろうが、亡くなったほうは明るくなんか死ねないんじゃないか。痛いだろうし、苦しいだろうし。アナリストが日本経済について語る部分、新聞記者である著者の持論なのだろうが正論を語り過ぎ。経済小説ではないのだし、ソコは主題じゃないだろうと、イライラが募った。
加筆訂正したために、ひどい作品になってしまったが、加筆訂正前の「夏の光」を探して読むほどの時間は自分には残されていない。

「陽だまりの偽り」(08年 長岡弘樹 双葉文庫)

ハラハラ、ドキドキの短編が5つ。表題作となった「陽だまりの偽り」はボケが始まった初老の男が嫁から預かった孫への仕送りのお金を紛失し、つじつま合わせのためにひったくりにあったと装い、「淡い青のなかに」では、交通事故を起こした管理職手前の母親が息子に罪を背負ってもらおうとするなど、推理作家らしいヒネリと落ちがあるが、うーん、月間ナントカ小説の読切特集とかにでてきそうなエンターテインメント。まあ、面白かったけれど、後先短い自分にはこういうの、いらないかな。