2019年5月26日日曜日

ロバの耳通信「キングダム」「絶叫」

「キングダム」(19年 邦画)

久しぶりに出向いた映画館のスクリーンは小さく、音声は大きいだけだったが、快適な椅子。普段のネット動画に比べれば雲泥の差。
原作(原泰久)のマンガは何巻か見て、中国の春秋時代を舞台にした物語の面白さを感じつつも、どうしようもない絵(マンガ)の下手さ、特にメばかりが大きく表情が描きわけられていないことに嫌気をさしていたが、映画は面白かった。監督(佐藤信介)、脚本(黒岩勉)の力と役者のデキか。ストーリーは53巻もある原作よりずっと短く、ストーリーも単純化させているらしくストレートに楽しめた。映画は娯楽と割り切れば、こういうのもアリだろう。
主人公の信(しん)役を山崎賢人、その幼友達の漂(ひょう)とのちの始皇帝となる嬴政(えいせい)役に吉沢亮(二役)、成蟜(せいきょう)役に本郷奏多と、若手を起用していたがワタシにはほとんど馴染みがない俳優なので印象も強くない。ストーリーは多数の作家や漫画家が競って題材にしてきた「三国志」との齟齬はないから、あとは多くのキャラを楽しみにしていた。ワタシの印象が強かったのが、「秦の怪鳥」と呼ばれた王騎(おうき)役の大沢たかお。怪しげなオカマ言葉をしゃべりながらも大きさを感じさせるキャラクター設定は、若い主役たちを完全に食っていた。この配役、この映画だけではもったいないないので、多分作られる続編でも怪人役大沢たかおに大いに期待。「山界の死王」楊端和(ようたんわ)役の長澤まさみは一段と美しく、フクロウの蓑をかぶった「軍司」河了貂(かりょうてん)役の橋本環奈はココでも可愛かった。

何度切られても死なない味方の兵士たち。昔のチャンバラ映画と同じ、ゼッタイに主人公は死なないし、最後はハッピーエンド。だから安心して見ていられる。

「絶叫」(19年 テレビドラマ)

この2年ほど、映画専門サイトにテレビドラマがアップロードされるようになっている。アメリカのケーブルテレビでNetflixが好評で、それを日本国内で字幕を付けて日本向けに出したら当たったというのがスタートだったと推測。それ以来、国内外のテレビドラマをネットで見ることができるようになった。普段テレビドラマを見ないが、コレなら口コミのいい作品を、まとめて見れる。ウレシイ。

「絶叫」はWowow放送の連続テレビドラマ。同名の葉真中顕(光文社文庫)が原作。主演の尾野真千子が凄い。幼い頃から母親(麻生祐未)に差別されて育った女、保険外交員、デリヘル嬢をして母親の生活費を稼いで、あげくは連続保険金殺人を犯し、最後は孤独死するという「孤独な女」を演じる。ワキ役の配役もアイドルを配した安直テレビドラマにせず、芸達者を揃えて作品に重みを出している。女刑事役の小西真奈美「だけ」がミスキャストだったが、そのせいで尾野の演技が一層光っていた。不幸な母と捨てられた娘、ふたりの女の絶叫を聴けば充分。結末もトリックもわかってしまったから、哀し過ぎる女の一生をあらためて原作で読む気には到底ならない。 

2019年5月24日金曜日

ロバの耳通信「いじめの鎖」「憑かれし者ども」

「いじめの鎖」(12年 弐籐水流 幻冬舎文庫)

弐籐水流(にとうみずる)は「仮面警官」シリーズ(10年~ 幻冬舎文庫)の著者として有名らしいことを知ったのは、この「いじめの鎖」が、ワタシの相性に合わなかったためどんな作家かとwikiや読書メーターをチェックしていて知った。ワタシは「羹に懲りて膾を吹く」みたいなところがあって、最初に読んだ本との相性が悪いと、その作家の本をなかなか選ばないことが多い。

「いじめの鎖」がワタシの相性に合わないと感じたところは、大好きな警察小説なのに警察署内の不倫をギャグにしてチャカしたり<関係ないところでムリに笑わせないで>、頭の皮を剥いで宅配で送るなんてスプラッタが出てきたり<あまりにもスプラッタ>、昔のイジメの仕返しを題材としている<改題前のタイトルは「怨み返し」>とはいえ、現在と過去が交互に出てきて幼なじみの誰かと誰かが入れ替わったり<三流探偵小説風>、うーん、考えられる限りの複雑怪奇なプロットにしたため、<ありえないだろ、そんなハナシ>なところ。で、羹に懲りてしまった。<読むと意味が分かるが>「いじめの鎖」いいタイトルなのになあ。



「憑かれし者ども」(13年 松本清張 新潮文庫)

若い頃に初めて松本清張の本に出会い、これはイケナイ、憑かれてしまうぞと不安にも似た気持ちになった。禁断の麻薬を知ったときの気持ちはきっと、こうなるんじゃなかろうか。確かに、そのあと未読の作品を探しては、あるいは何度も読んだ作品を繰り返し読んできた。
電車通勤をやめ、ネットの発達で時間を動画サイトの映画に使うようになって読書量も昔に比べ格段に減ったし、松本清張も全集モノを制覇したからあらかた読み終えた気もして、近年はあまり読んでいなかった。

カミさんの買い物に付き合って、ちょっと時間つぶしに立ち寄った本屋の棚に見つけた「憑かれし者ども」。サブタイトルに桐野夏生オリジナルセレクションとある松本の傑作選で、目次をチラ見して巻頭の「発作」を立ち読みしていたら、嵌まってしまった。また「憑かれ」てしまっていた。少なくとも一度は読んだ作品たちなのに、いかん、また捕まってしまったのだ。ほかに読みたい本が山のようにあるのにだ。

「憑かれし者ども」は6編の短編からなる。「発作」は別居の妻への仕送りや浮気性の愛人との費用のために借金を重ねる小心な出版社員の話。「鬼畜」では逃げられた愛人に押し付けられた3人の子供を正妻に疎まれ、針のムシロ状態になって子供を次々に殺す印刷工。などなど共通するのは小心な主人公が、愛欲やら借金に追いつめられ破滅してゆくハナシ。

松本清張にハッピーエンドはない。人の不幸は蜜の味、松本の作品はいつも思いっきり甘い蜜の味。カタストロフィーが待っているとわかっていても蜜を遠ざけることはできない。私の性根は、人の不幸を喜ぶワルらしい。

2019年5月18日土曜日

ロバの耳通信「流転地球/さまよえる地球」「ハンターキラー潜航せよ」

「流転地球/さまよえる地球」(19年 中国)


太陽の爆発で地球の存在が危うくなり、地球ごと木星に何千年かけて移住するというスケールの大きなSF映画。なにより注目すべきは、この映画がハリウッド製じゃないこと。原作(ヒューゴー賞を受賞したSF作家ケン・リュウの小説)も制作も全~部中国。海外配信はNETFLIXだというから機を見るに敏だよね。おかげで、今年の2月に中国で大当たりしたばかりの映画をもうネット動画で見ることができる。<日本公開は未定だと。>
同類のSF映画は、「ディープ・インパクト」(98年)、「地球が静止する日」(08年)とか「アルマゲドン」(13年)などほとんどがハリウッド製なのは突出したVFX技術、つまりはハリウッド映画会社の優れたCGのせい。「流転地球/さまよえる地球」はニュージーランドを拠点としたVFX制作会社WETAが参加したというから、これからの中国映画が楽しみ。

こういう映画を日本で作ると、浪花節風に人情がらみだったり、イケメンやらアイドルを使って恋愛物語にし、で主題を逸脱して安っぽくなってしまうことが多いのだけれども、この「流転地球/さまよえる地球」では家族、親子、兄弟、友情で味付けしつつも、天候異変に陥ってきた地球の危機を回避するため世界の人々が力を合わせるという、まあ、キレイゴトにもとられかねない共存、共栄の軸をずらすことがなかったのがいい。前半、スジが見えなくて退屈したが、後半は盛り上がって手に汗もの。見直したぞ、中国映画。制作費も収入も中国史上最大規模のSF映画だと。なんだか、韓国がパクリそう。

「ハンターキラー潜航せよ」(18年 米)

ジェラルド・バトラー(「300」(07年))、ゲイリー・オールドマンをキャスティングしたが、この手の潜水艦映画はロバート・ミッチャム&クルト・ユルゲンスの「眼下の敵」(57年)、「Uボート」(81年)をはじめトム・クランシー原作、ショーン・コネリー主演の「レッド・オクトーバーを追え!」(90年)ほか名作といわれるものがたくさんで、それらを超えることができなかった様子。
日本公開が始まったばかりだが、米ソの衝突を想定した映画が米本国よりヒットするとも、あるいは若い人たちの歓迎を得られるとも思われないから4千万ドルという法外な製作費のモトをとるのは難しいだろう。とはいえ、上映時間2時間のかなりを閉鎖空間の息詰まる緊迫シーンの連続は面白かった。ストーリーはロシアの国防大臣が大統領を監禁し、戦争をおっぱじめようとしていることを知った米軍が特殊部隊をロシアに派遣しロシア大統領を救いだすと、まあ、ほとんどありえない話なのだが。 ロシア潜艦の船長役で出ていたのが大ファンのスウェーデン名優ミカエル・ニクヴィスト(「ミレニアム」3部作(09年 スウェーデン))。この作品が遺作となった。

2019年5月13日月曜日

ロバの耳通信「終末のフール」「愚者よ、お前がいなくなって淋しくてたまらない」

「終末のフール」 (09年 伊坂幸太郎 集英社文庫)

あと3年後に小惑星の衝突で地球が滅亡する。うん、正確には8年後に地球が滅亡すると分かって5年後の世界。市井の人々がそれを受け入れ、あるいは受け入れないままに暮らしを続けるという物語。なんだか、ありえない話のようではあるが、よく考えてみると余命〇年と宣告されたガン患者と似ている。ちがうところは、あるタイミングでみんな一緒に死ぬ、片や自分だけが死ぬ。そうか、似てはいてもこれはゼンゼンちがうのか。

8連作のトップの「週末のフール」は中年夫婦と事故死した長男、家を出た娘のわだかまり。馬鹿としか表現することを知らない不器用な夫の哀しみが伝わってくる。「太陽のシール」では長く子供ができなかった夫婦に妻の妊娠がわかり生むかどうかを悩む。「冬眠のガール」は亡くなった父の蔵書2千冊を4年間かけて読み終えた元女子高生が新たな人生の目標を決める話、とかどれもジンワリ愛が伝わるいい話。伊坂幸太郎らしく、哀しい物語にもホッとできる癒し。すごく面白い本じゃないけれど、ほかの作品も読んでみたい、と、前にどこかに書いたか。



「愚者よ、お前がいなくなって淋しくてたまらない」(17年 伊集院静 集英社文庫)

自伝小説だという。伊集院の文章は週刊誌の人生相談みたいなところで見かけるだけだったから小説は初めて。故夏目雅子のダンナというぐらいの知識しかなかった。イーカッコシーというのだろうか、ハードボイルドの主人公を意識してなんだか気取ったユウジ。競輪記者のエイジ、芸能プロ社長の三村、編集者小暮らとの交流を淡々と描いている。
登場する男たちは皆死んでしまい、女たちはみんな哀しい。やるせなくて、哀しくて途中で何度も放り出しそうになった。暗いのはもういいかと。主人公のユウジはいいよ、周りをすべて上から目線で見ながら「愚者よ、お前がいなくなって淋しくてたまらない」と勝手に淋しがっていればいいから。
人の不幸は蜜の味”と言う。ユウジの周りの人々の哀しみを自分に置き換えたりして、ああ、自分はこんなに不幸じゃないんだと思う。ワタシは人の不幸を笑うこともないし、こんなに淋しくはない。

2019年5月8日水曜日

ロバの耳通信「シグナル」「オートマタ」

「シグナル」(14年 米)

謎解きだから、ミステリー映画なんだろうなこれも。MITの仲間3人がハッカー「ノーマッド」を追いかけネバダに行く。エリア51(米政府の秘密の研究地域があるといわれている)みたいなところにある隔離施設に幽閉され上肢や下肢をロボット化され、そこを脱出するため大暴れーというSFでもある。大部分となる隔離施設の中のストーリーに脈絡を見つけられずシーンが変わるたびに、どうなってんだよと言いたくなる。ローレンス・フィッシュバーン(「マトリックス」シリーズ(03年~米)のモーフィアス)が「ノーマッド」で施設の親玉だとおもっていたら、彼もロボットだったと支離滅裂。こういうミステリーものは、SFで味付けしたとしてもスジに多少の合理性がないと消化不良のモトになる。スタンリー・キューブリック作品を彷彿させた。カメラワークもいいし、映像もキレイなのだが、おわっても謎のままのストーリーに不満が残った。

「オートマタ」(14年 スペイン)

砂漠化した地球が舞台。生存者はヒューマノイドロボット「オートマタ」を使い過酷な環境で生存を図ろうとする。オートマタには、生命体に危害を加えない、ロボットの改造をしないという設定<アイザック・アシモフのロボット工学三原則に類似>がなされたているはずのオートマタに、ロボットにより改造されたものが見つかり、保険調査員(アントニオ・バンデラス)が調査に出向くが、横暴な人類と虐待される従順なオートマタとの挟間で悩むという物語。
女オートマタの表情が誰かに似ているのだが思い出せない。スカーレット・ヨハンソンが草薙素子を演じて話題になった「ゴースト・イン・ザ・シェル」(17年 米)に出てきたロボットの顔か。いつも寂しげなアントニオ・バンデラスがこの映画でも終始暗い表情で、とんでもなくありえないSFなのに彼の人間味がにじみ出ていて良かった。

2019年5月4日土曜日

ロバの耳通信「長いお別れ」

「長いお別れ」(18年 中島京子 文春文庫)

本については最後に。以下、全部自分のこと。「死、そしてガンとボケ」

40歳で死ぬからそれまでに好きなことをしろ。嫁さんも紹介する。△△(地名)で郵便局長やってる〇〇さんの娘はどうだ、とか真顔で祖母に言われたのはまだハタチにもなっていなかった時。生まれ育ったところは、モノミに色々な相談をする習慣があり、祖母がワタシの写真を持って懇意にしているモノミのところに行ったらしい。片親を亡くして、淋しかったワタシをとても可愛がってくれていた祖母だったから、信じてしまった。

それまでは漠然と死ぬことが怖かった。思いつめたことがあり、死について考えた時に、死んでしまうと意識がなくなってしまいうのかと、闇の中の落ち込むような気がして「あっち」へは行けなかった。周りにはカミサマやホトケサマを信心している人が多くて、特に祖母はいつもナミアムダブツを唱えている信心深いヒトだったから、天国や地獄などの話を死ぬほど聞かされていたのに、なぜか、死んだら意識がなくなってしまうと、思い込んでいて、ただただ怖かった。

郵便局長の娘を貰うことはなかったが、早い結婚をしたり、当時としては法外な生命保険に入っていたのは、40歳での死を意識していたのだと思う。もしかしたらと思いつつも結婚をしたり、子供を作ったりしたのは、無責任の極みでもあるが40歳で死ぬことはなかった。そのころ考えてた死ぬことの恐ろしさは、自分の意識がどうこうではなく、残った家族の悲しみや暮らしのこと。

50歳になった時救急車のお世話になったが、死ぬことはなかった。救急車に乗ったが受け入れる病院までに時間がかかりかなりヤバいところまでいったが。その時思ったのは、直前まで苦しい思いはしたが、死はカンタンなものだと。その時死んでしまっていたら、かなりの額の生命保険も残せただろうし、いまこんなに色々なことに思い煩うこともないだろうにと、本気で思ったりしている。

いま亡くなるひとの半数はガンだという。

だいぶ前だが有名な歌舞伎役者の若い妻がガンで亡くなったり、ほんのこの間、金メダリストの若いスイマーに白血病が見つかったりで、有名無名とか金持ち貧乏でもなく、公平かどうかはよくわからないまでも、みんないずれは死んでしまうのだし、ガンが自分や家族の間近に迫って来ている気がする。結構、苦しかったり痛かったりするものらしいから、死ぬことよりもガンは怖い。

ガンを含め、色々な病気に色々な治療法も発見されているようだし、まあ、長生き「させられる」方向にあるようだが、もっと怖そうなのはボケか。いやいや待てよ、ボケはなってしまえば本人はわからないだろうから、残された家族に迷惑をかけるのか。結局のところ、ガンもボケも、なにかもう「そんなに長く生きてはいけないよ」という、創造主の意思に反して、ワタシも含め人々が傲慢にも生にしがみついて長く生きしようとしていることへの警告でなのだろう。

痴呆症だと診断された中学の元校長先生の物語「長いお別れ」を読みながら、こんなことを考えていた。
和みや癒しを感じるいい本である。しかし、認知が不治の病であることに変わりはなく、その避け方も、逃げ方も教えてくれるわけではない。あたりまえだが。