2017年9月24日日曜日

ロバの耳通信「赦す人:団鬼六伝」

「赦す人:団鬼六伝」(15年 大崎善生 新潮文庫)
偶然手に取った本だったが衝撃はすごかった。大崎は映画化された「聖(さとし)の青春」(15年 角川文庫、16年 邦画)の原作者として名前だけはうっすらおぼえていたが「あの」団鬼六の伝記を書いていたとは知らなかった。作家としての、また将棋指しとしての団鬼六の破天荒な人生を追いかけながら、鬼六に惹かれることをやめられない自らの人生も吐露している。鬼六を愛して止まなかった大崎が自分の人生と重ね合わせて、それぞれの時と場所をさまよっている。

鬼六の家系や両親の人となりなどは、時にはほら吹きにも思える鬼六よりの聞きとりが中心。だから、ノンフィクションとばかりは言えないのかもしれないが、鬼六の編集者としてあるいは友人として愛情をもって鬼六を描き切っている。鬼六の臨終を書いたページでは、鬼六を愛した人たちとの最後では涙がせり上がってきて、震える手で鼻をつまんで涙と鼻水をとめた。

映画で終わっていた「聖の青春」を読むときは、ひとりの時にしよう。若くして亡くなった聖は鬼六よりずっとかわいそうな気がする。愛した人も少なく、愛された時間もずっと短いと思う。「聖の青春」は雨の午後か深夜に読もう。

2017年9月17日日曜日

ロバの耳通信「ザ・ライト -エクソシストの真実-」

 「ザ・ライト -エクソシストの真実-」(11年 米)

悪魔に取りつかれてしまった神父役のアンソニー・ホプキンス、この役を演じられるほかの役者は思いつかない。優しい語り口の神父が、凄みのある悪魔の表情に変わるところなんぞは、何度見ても怖い。怪談映画のような無音の緊張の連続から突然の擬音。思わず身を竦ませる。悪魔を信じることができることが、神を信じること。悪魔を信じることができなければ、悪魔と戦うことができないーと、信じる宗教は違うが、妙に説得力がある。

顔がそのままポスターになる俳優なんて、アンソニー・ホプキンス以外にはいないんじゃないか。

ロバの耳通信「いわさきちひろ」

「ラブレター」(04年 いわさきちひろ 講談社)

安曇野にちひろの美術館があるという。いつか行きたいと思っているのだが、行ってしまえば行きたい行きたいという気持ちを失くすことになるのがわかっているから、行かないほうが良いのかもしれない。

ちひろの絵は効く。つらいときとかに見ると薬のように効く。こんなに効くのは、ワタシが幼いころに母をなくしたということにかかわりがあるのだろうか、それとも、ちひろの絵には仏さまがついているのだろうか。

「ラブレター」 は、ちひろが夫松本善明のことを想った日記から始まる。挿絵が良くて繰り返し読んだ。オビには「バツイチ 家無し、職もなし。27歳、愛と不屈の物語。」とあったが、絵本や挿絵だけでは計り知れないちひろの暮らしを知って、ちひろの絵がますます好きになった。

「少女雑誌の口絵かなんかで、はじめてローランサンの絵を見たときは、本当におどろいた。どうしてこの人は私の好きな色ばかりでこんなにやさしい絵を描くのだろうかと。」まいったね、私もそう思った。

2017年9月12日火曜日

ロバの耳通信「アトラクション」

「アトラクション」(17年 露)

アトラクションAttractionという邦英題はついているが、ロシア語の原題Притяжениеは魅力とか重力、引力の意味があるようだ。どうもそっちの方がいい。なぜか人間にソックリの地球外生命体に、主人公が喫煙とかの人類の悪弊を弁解しながら説明するのがいい。地球外生命体、まあ宇宙人が地球人の考え方や暮らしを学ぶときに、哲学問答をするのが、「ラストサムライ」(03年 米)のトムクルーズと渡辺謙の会話を思い出させる。「アフガン」(05年 露)で監督、製作、主演の三役をこなした気骨の監督フィヨルド・ボンダルチェークはかなり影響を受けたにちがいない。

ロシア映画といえば、圧倒的に多い戦争映画かゲームものが定番なのだが、これは画像もキレイな3D-SFXだし、女優さんはキレイだし、音楽はハンス・ジマー(前出「ラストサムライ」
)風だし、長いタイトルバックの始まりに流れる主題歌は思い切り切ないラブソングでハリウッド大作を意識しているのだろう。主人公の父親の大佐役をやったオレグ・メンシコフが「エイリアン2」(86年 米)でアンドロイドのビショップ役を演じた米名優ランス・ヘリクセンを彷彿とさせる存在感。2時間強と長いから、すこし中だるみはあるが大音響の3Dで映画館で見たい。

2017年9月10日日曜日

ロバの耳通信「スプリット」

「スプリット」(17年 米)
ナイト・シャマラン監督の新作ということで期待してみたが、前半はダラダラとした精神分析医と多重人格者の会話や、多重人格者に監禁された3人の少女ー中学の演劇部でもこんな演技はしないだろうと思うほどの大根ーが逃げ出そうとするシーンなど退屈な時間が続く。本物の多重人格者に見える名優ジェームズ・マカヴォイの表情や、ラストに獣人になるところ以外は見るべきところはなかった。シャマランへの期待が大きすぎたか。残念。

シャマランのほかの作品、たとえば死人が見える「シックス・センス」(99年 米 以下同じ)、死なない男「アンブレーカブル」(00年)、ミステリーサークル「サイン」(02年)、閉ざされた村「ヴィレッジ」(04年)、自殺する人々「ハプニング」(08年)などなど、ほとんどが「不思議」を描いた作品で、ノッケからギョッとするシーンが多いのだが、この作品は多重人格者が24番目の人格として自分の中に獣人を生み出すというもので、変身「X-MEN」シリーズ(00年~)や人狼「ウルフガイ」シリーズ(70年~ 平井和正)を思い出させる。
この多重人格者も彼に監禁される少女も、幼い時に肉親などに酷い虐待を受けていたという、いままでの作品と同じ流れ、つまりは<どんなに不思議に見えても、結果にはそれなりの理由がある>。
wikiによれば続編「グラス(仮題)」(18年予定)ではこの多重人格者が生み出した獣人が主人公になるらしい。ラストでチョイ役で出たブルース・ウイルスが主演とのことで、こっちに期待したい。

2017年9月3日日曜日

ロバの耳通信「静かな雨」「心はあなたのもとに」

「静かな雨」(16年 宮下奈都 文藝春秋社)「心はあなたのもとに」(13年 村上龍 文春文庫)

2冊の恋物語を読んだ。「静かな・・」はたいやき屋のこよみさんを好きになった青年の物語。こよみさんは交通事故で1日しか記憶を保っていることができない病に。「博士の愛した数式」(03年 小川洋子 新潮社)のアレである。「心は・・」は、ファンドマネージャーが愛した風俗嬢サクラが1型糖尿病で死んでしまうという物語。どちらかを選べるのならば、こよみさんかな。無人島にどちらかしか持ってゆけないとしたら、村上の591ページより宮下の107ページを選ぶ。時間がたっぷりあっても、長編に散りばめられたひけらかしや名言に共感を感じないより、優しい言葉だけの滲みてくるような文章を、声に出して読んでいたいから。


宮下奈都は本屋大賞で話題になった「羊と鋼の森」(15年)以来か。「羊と・・」もココロに残るいい作品だったが、ワタシはこの「静かな・・」のほうがゼンゼン好きだ。こよみさんが交通事故で入院したところなんて、ほんわか恋の物語を楽しんでいたものだから、まるで身内が事故に遭ったときのように自分の心臓の鼓動が聞こえ、一瞬だが脳が白くなったような気がした。なんて作家なんだ。

終章の4行がいい。滲みた。

ビンボー人のせいか、女性をお札でひっぱたいてモノにするなんてのは趣味じゃない。あこがれもしない。村上がいつもの上から目線で、ワイン、料理、ジャズ、サッカーはてはほかの女性関係などを「たっぷり」ひけらかしてくるのが鼻について、どうもイヤだった。主人公が幼い時の出来事、例えば教師だった母のことや住んでいた家のことなどを語るところなんか、自分の環境とは全く違うのにとても懐かしかったりして、いい作家だなとか思うこともあったのに。

1型糖尿病はとても大変な病気みたい。病気、とひとくくりにしてはいけないのだろうけれども、肺ガンで亡くなった友人のことを思いだしたりするとね、病気って本当に「大変だ」と思うんだ、軽かったり重かったり、治ったり死んじゃったり、なんだかとても不公平な感じはするけどね。

まあ、1日しか記憶を保てない病気より、1型糖尿病はずっとずっと苦しくて辛い病気に違いないし、死んでしまった風俗嬢のサクラは可哀そうだけれども、ソコをいくら悲しい劇に仕上げても、愛人に死なれた大金持ちの物語なんて・・つまらない。

あとがきに、1型糖尿病について書いた動機は結局この病で亡くなることになった村上の友人のことだあった。ソレはアリだと思う。親しい人、特に自分より若い人を病気で亡くす不条理さは余りある。しかし、設定を風俗嬢にしたのはどうかな。たぶん、不規則な生活なんかを想像するとなんだかもったいない気がする、命が。作品の中のサクラは可愛いけれど、ワガママである。糖尿病の影響で高じた神経病かもしれないが。水商売をしたり学校に通ったり、旅行をしたりで、そりゃあ病気も悪化するだろうよ、とか反感さえ覚える。第一、この病に苦しんでいる多くの方々は、普通の暮らしを願いつつ叶わぬ闘病生活を強いられているという。男と女の狡さを伝えたくて書いた作品ならば成功しているのかもしれないのだが、なんだか割り切れない。

ファンドマネージャの仕事の話はとても興味深く、村上らしい理詰めの説明は説得力もあった。しかし、繰り返しひけらかされる趣味の世界や、エロ小説のような寝物語は食傷してしまった。そういう中で、最初から最後まで語られる1型糖尿病のディテールが、プロットの重要な意味を持つとは言え、不謹慎にさえ感じられた。

恋についてのフランスの哲学者の引用から始まる解説を小池真理子が書いている。小池によれば、この小説は村上龍が書いた「ほとんど珍しいほどの」純愛小説だと。うーん、違うと思う。風俗嬢だからどうこうでもないけれども、「片翼だけの天使」(84年 生島治郎)のその後、結局金をむしり取られて別れてしまった(らしい)話もあるしね。