2019年1月27日日曜日

ロバの耳通信「ヒポクラティスの誓い」

「ヒポクラティスの誓い」(16年 中山七里 祥伝社文庫)

裏表紙に’迫真の法医学ミステリー’とあったから、おもわずなじみのない著者の本を借り出してしまった。日本では検視(死)官が独立しておらず、警察官が検視をすることも多いというから、あまり見かけない検視官モノなのだが、なんだか、やたらと詳しい病理学とか検視報酬とかとの雑学に、著者はホンモノの検視官か医者だと思い経歴を調べたらフツーの読書オタクから作家になった人。それにしても、だ。よく勉強している。
このミス大賞(09年「さよならドビュッシー」)がデビュー作の作家とあって、納得の面白さだった。登場人物の突出した性格の描き方やストーリー展開のコジツケはこの作家、ミス大賞をまた狙っているんじゃないかと勘繰りたいほど。まあ、面白いから何でも許すよ。5つ小話の締めの謎解きに、あ、そうだったのかと膝を打ちつつも、自分の感性の悪さに気付き、情けなくなってしまった。

検視官といえば検屍官ケイ・スカーペッタが犯人捜しに大活躍する「検屍官」シリーズ(92年~ パトリシア・コーンウェル 講談社文庫)。パトリシア・コーンウェルは大好きでほとんど読んでいると思うが、「検屍官」シリーズだけでも文庫版で23冊(上下巻もあるから実冊数は40冊以上)もあり、ほかのシリーズもあるから、うーん、棚に並んだコーンウェル、紺色の背表紙の講談社文庫のドレが既読で、ドレが未読か迷ってしまうのだ。

2019年1月22日火曜日

ロバの耳通信「ノーカントリー」

「ノーカントリー」(07年 米)

ポスターだけを憶えていて、見たつもりになっていたが初見だった。全編バイオレンスというのだろうか、殺戮シーン満載。R指定ながらアカデミー賞獲得は当時の社会問題を強く反映していたせいだろう。主人公の保安官がトミー・リー・ジョーンズ(缶コーヒー「ボス」のCMの例のオジサン)なのだが、話の主体となるのはギャングのお金をネコババしたベトナム帰りの男とそれを追う殺し屋。ノッキングガン<屠殺(とさつ)用のショットガンのようなもの>を持ち歩く殺し屋役がベネロペ・クルスのダンナのスペインの怪優ハビエル・バルデム。この殺し屋が実にハマっていて気味悪かった。不安と緊張を強いられる展開で息を詰めながら見ながらも、引退を考えている保安官とのバトルも予想されどんなカタストロフで終わるのかと半ば期待もしていたのだが、殺し屋が交通事故で重傷を負うところで終わってしまった。血生臭いシーンがなくなって、ちょっとホッとした。ボスキャラから逃げて、ゲームを終えた心境か。まだボスキャラが死んでないので本当に終わってはいないのだが、まあ、もういいやという気持ち。

また、気に入った女優のハナシだが、ベトナム帰りの男の幼な妻(年齢、ではなく世慣れしていないネンネの)妻役の英女優ケリー・マクドナルドを久しぶりに見た。テキサスの田舎の舞台に不似合いの色白さが堪らない。ヘロイン中毒の若者たちを描いた「トレインスポッティング」(96年 英 アーヴィン・ウェルシュ同名の小説の映画化、ユアン・マグレガーの出世作)でのケリーの瑞々しい演技も忘れ難いが、「ノーカントリー」のケリーはよかった。

2019年1月19日土曜日

ロバの耳通信「夜のピクニック」「月の裏側」「蜂蜜と遠雷」

「夜のピクニック」(06年 恩田陸 新潮文庫)

80キロを一晩かけて歩くという高校の卒業行事「夜行祭」を描いたもの。学生時代に合宿の仲間と洗面器を抱えて、町までオデンを買いに行ったことを思い出した。行きは走って行ったが、帰りはオデンや追加のおでん種の大根やら、薩摩揚げなどの袋をぶらさげて月夜の土手沿いの道をいろんな話をしたことを忘れない。多分5、6人くらいだったと思うが、後になり先になりでいろんなことを話した。ずっと先まで白く光った道はいつまでも続くようで、話が途切れると寂しくなって急に饒舌になったり。

「夜のピクニック」の、まだ恋とは言えない好きという気持ちが少しづつ溜まったり、抜けたりの高校生たちの物語は、自分にもこういう時代があったのだと、その頃のことを懐かしみながら読んだ。

同名の映画(06年 邦画)も見た。多部未華子が新鮮で良かったが、配役が役者っぽいのが多かったせいで顔見世のシーンが小賢しく、なんだか不自然なものだった。原作は、軸となる何人か中心に、時間の流れの中で小さなストーリーとともにスポットが当たって行くような、そんな思いでを探るような作品なのだから、多部以外を無名の役者、うーんと役者ズレしていない人たちで固めてほしかったかな。

「月の裏側」(00年 恩田陸 幻冬舎文庫)


九州の水郷、箭納倉(やなくら 柳川がモデルらしい)で起きた連続失踪事件を追いかけるルポライターと元大学教授ほかが得体の知れないモノを追いかけるというスジなのだが、前半はダラダラと不思議なことを小出しされるだけでタイクツする。昔に住んでいた家とか入り組んだ掘割とか懐かしい風景の中に、オトナの愛物語を入れ込んだために、そこに気を取られて肝心の「得体の知れないモノ」の怖さに入り込めない。ここは、キングの「スタンドバイミー」(86年 米)のように主人公を少年たちダケにしてくれたらよかったかな。


「蜂蜜と遠雷」(16年 恩田陸 幻冬舎)

恩田陸の著作のリストを見ていて気付いた。この本、表紙をハッキリ覚えている。書評をチェックしたらピアノコンクールを題材にしたものだと。うーん、それ以上思い出せないのだ。ピアノは好きだし、あらすじを見ると面白そうだし、本屋大賞・直木賞を獲ってるというから話題になったに違いないのだが。話題になった時の本屋で手にとっただけかもしれない。ただ、表紙をこんなにハッキリ覚えているのに、ナカミを思い出せないというのも解せない。読んでないのか、たまたま体調がすぐれないときだったので記憶に残らなかったのか。

頼りのカミさんに聞いてみたら、”アナタ確かにワタシにこの本の話をしてたよ”と。うーん、ついにボケたか、どうしても思い出せない。図書館で検索したら、待ってる人もそう多くはなさそうだから予約するとしよう。



2019年1月14日月曜日

ロバの耳通信「ワタシノタビ」

「ワタシノタビ」

(初めての海外)初めての海外はドイツ。地方都市に3泊4日くらいの出張。現地の人が空港まで迎えに来てくれて、朝はホテルに迎えに、仕事のあとは早い時間にホテル送ってくれた。初夏だったから遅くまで明るくて、街中を歩き回って初めての外国を楽しんだ。帰途に寄ったロンドンのホテルで言葉が聞き取れず朝食を食べ損ねたことくらいがトラブル、そんな楽な海外出張。次に行ったシンガポールでは片言の日本語のわかる現地の方にお世話になった。仕事はあまりうまくいかなかったが、約一週間のシンガポールを満喫した。植物園もホッカセンター(フードコート)も、突然の夕立さえ楽しかった。

(好奇心)その後、一人で海外を旅する機会が増え、大きなトラブルもなく、長時間のフライトや乗り換えの空港での待ち時間、見知らぬホテル、初めての人たち、見慣れぬ料理など緊張と初体験の繰り返しにすっかり取りつかれてしまった。仕事の合間にというより、仕事を合間に入れながらの予定を立て、各地の美術館や博物館、名所旧跡などアチコチ出かけた。楽しい思い出ばかり。

(マイスタイル)何度も海外に出るようになると、自分の流儀になった。手荷物は最低。よくいろいろな人に、荷物はそれだけかと呆れられた。空港からの移動は公共交通機関。ホテルは中以上(請求できる経費はケチらない)。食事は地場の小食堂やフードコート。ホテルで食べるのは無料の朝食だけ。下着の洗濯は毎日。風呂に入る前に、洗面所のシンクに熱湯と粉せっけんの液に浸しておく。バスタオルで巻いて足で踏み、バスルームのワイヤで干す。財布をふたつ持っていたり、予備のカード、パスポートのコピーと予備の写真をカバンの底に入れていたりもしたが、それを使うことはついぞなかった。幸運だった。

(変化)ウキウキ、ワクワクの欧米周りが約10年、その後中国の担当になって旅行が全く変わってしまった。
言葉が全く通じないから、いつも通訳がついた。通訳がいるときは言葉に困ることはなくなったが、一人歩きはできない。大都市はなんとかだが、地方に行けばバスにも乗れない、食堂にもはいれない。夕方に通りを歩くと目つきの鋭い男たちがあちこち、暗くなったら外には出られない。ホテルの湿っぽい部屋にも、ほぼ毎日の
 宴会も、汚いトイレも、付き纏う物乞いや闇両替屋も、なにもかもに嫌気がさした。絶え間ないクラクションの音や排気ガスだらけの大通り、一晩に何回もある停電、どんなに気を付けていても突然襲われる腹痛と下痢。中国の旅はただの苦痛になっていった。帰国しても、中国のどこかに取り残されて途方に暮れるという悪夢を見るようになった。

(飽きてしまった)仕事が変わり、中国以外のところにもいくようになったが、ずっと感じていた不安、不満の振れ幅が段々大きくなり、段々イヤに。飛行機が遅れたり、体調をくずしたり、ホテルがよくなかったり、カードが使えなかったり、両替の計算をチェックしたり、いろんな領収書をまとめたり、そういうもろもろの「旅では普通のこと」がメンドウでイヤになってきた。多くの不安や不満の先に待っている、新たな出会いや、風景や料理などもたいした期待ができないと気付いた。重なっていた仕事のストレスに負けていたのかもしれない。

(結局のところ)カミさんに言わせると、昔はきっと良かったのだと。時代が変わってきたのだと。もはや見知らぬところに、いいことなんて待ってはいないのだと。そうなのかー。

2019年1月9日水曜日

ロバの耳通信 最後まで見ることができなくなった映画「道」

「道」(54年 伊)

初めて見たのはNHKのテレビ放送(71年)じゃなかったかと。乱暴者の旅芸人ザンパノ(アンソニー・クイン)の吹替を小松方正、知恵遅れの女芸人ジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)の吹替を市原悦子がやっていたことを昨日のことのように覚えている。ストーリーの哀しさより、セリフのひとつひとつや主題歌(ニーノ・ロータ)が頭を離れなかった。
ヒトは強い印象を受けると、五感のバランスがおかしくなるらしい。独身寮で、そのころ齧っていたギターで主題曲「ジェルソミーナ」を良く弾いていた。ずっとあとにこの映画のDVDを手にいれて何度か見たのだが、ストーリーを憶えてしまうと、次の哀しいシーンを予想してしまい、いつのまにか最後まで見れなくなってしまうようになった。
先日、動画サイトで見つけたが、やっぱり最後まで見れなかった。年を経て、辛いこと哀しいことへの耐久性がなくなってきていることをはっきり意識する。この映画を見ていると、辛いこと、哀しいことは十分味わったから、もう沢山だとワタシの五感が言うのだ。

2019年1月2日水曜日

ロバの耳通信「さらば、わが愛/覇王別姫」

「さらば、わが愛/覇王別姫」(はおうべっき)(93年 香港・中国)

誰かの感想に”死ぬ前に絶対見なければならない映画”とあったが、私も全く同感。京劇の歴史だけでなく太平洋戦争前後の文化革命、日中戦争など半世紀の歴史を眩しいほどの映像と心揺さぶる音楽とともに学べる。師弟愛、同性愛、嫉妬などのあらゆる愛憎を隠さず、美化することも貶めることなく丁寧に映像の中に綴る。張 國榮(レスリー・チャン)や巩俐(コン・リー)といった名優の力もあるのだろうが、優れた原作・脚本(李碧華)や監督(陳凱歌)や彼らを育ててきた香港・中国の映画への取り組みは、すぐに流行のイケメン男優やアイドルにおもねてしまう最近の映画産業も学ぶべきところが多いのではないか。

46歳で自殺してしまったレスリー・チャンについては多くの人が
語っているし、私も「欲望の翼」(90年 香港)など忘れられない作品も多いが、ここで書いておきたいのが、コン・リーのこと。初めて出会ったのが、図書館の視聴覚ブースでカミさんと見た「紅いコーリャン」(87年 中国)のDVD。本作が初めての監督作品だという張芸謀(チャン・イーモウ)によって作られた赤を強調した映像美と美しくも逞しい中国女性の印象が強く焼き付けられてしまった。これが、私の中国映画への傾倒の始まり。
このあと、動画サイトなどなかった時代だから、レンタルDVD屋に走り、チャン・イーモウ、コン・リーの「菊豆」「紅夢」(90、91年 中国)を借り出し、深夜まで見た。<当時は、新作でなくともDVDレンタル料金はかなりのもので、最も安い一泊二日で借りたのだろう。さもなければ、深夜までDVDを見ることなんか、ほとんどなかった・・>