2019年2月27日水曜日

ロバの耳通信「同棲時代」

「同棲時代」(愛蔵版 14年 上村一夫 グループ・ゼロ)

「同棲時代」が双葉社の漫画雑誌「漫画アクション」での連載が開始されたのが72年。ワタシの青春時代と重なる。スマホどころか携帯電話すらなく、会社の寮での娯楽はテレビ、麻雀と漫画雑誌。いつも誰かの部屋に集まり、2抜け麻雀(4人でやる麻雀で、参加者が多いと下位2人が交代)の待ち時間にギターを教わったり、積み上げられた漫画雑誌を読んだものだ。
一時は漫画家になりたいと真似事をしたこともあるワタシに、ベタ(黒塗り)が多く、暗く、セリフより表情で読者に訴える上村の漫画は強烈だった。黒い髪、切れ長の眼の”今日子”は上村の漫画のなかからワタシの夢の中にまでせり出してきて、目玉焼きを作ってくれたり、雨の中牛乳を買い行ってくれた。もちろん、コンビニなんかない。そう、もうすぐ終わってしまう昭和はそんな時代だったのだ。

当時大ヒットした「同棲時代」は梶芽衣子(今日子)、沢田研二(次郎)でテレビドラマ化(73年)、「同棲時代 ―今日子と次郎―」(73年)では由美かおるの上半身ヌードが話題になったりした。うん、由美かおるは”今日子”のイメージとはかけ離れた印象だったが、実にキレイだった。
上村の漫画は漫画雑誌の切り抜きや古本屋で見つけた単行本などたくさんの持っていたのだが、引っ越しを繰り返すうちにいつの間にかなくなってしまっていた。偶然この愛蔵版の電子版を見つけた。久しぶりに会った”今日子”は相変わらず、哀しかった。

2019年2月24日日曜日

ロバの耳通信「旅の闇にとける」「旅の人、島の人」

旅行記のようなものが好きだ。年齢を重ね、アチコチ出かけることが億劫になったり、カラダのわがままが利かなくなってくると一層どこかに出かけたくなり、それが叶わぬから代償行為としての旅行記漁りが始まる。若い頃、行ったことのない処の夢を見て思いを馳せ、旅行記を読み漁ったのとはちょっと気分が違うと思うが。

「旅の闇にとける」(15年 乃南アサ 文春文庫)

読書メーターなど書評もすごくいい。目次をチェックするとミャンマーや中国の奥地やらタスマニアやら、行ってみたくて行けなかったとこばかりじゃないか。
読み始めてどうもおかしい。いままで読んだなんとか旅行記とかとゼンゼン違う。興味を持って読み進めることができない。7章のどの書き出しも、あのドキドキするような期待感がわいてこない。作家の書きなれた文章だから、あたりまえだが普通に読めるし、蘊蓄を散りばめた体験記は目新しいことも結構ある。この本の中心となっているミャンマーの滞在記では、市井の人々との交流も丁寧に書き留められているし、明るい部分だけでなく暗いところも。これは、旅日記のカタチを借りた乃南の小説なのか。

乃南の本はいままでほとんど手に取っていない。直木賞を獲った「凍える牙」(08年 乃南アサ 新潮文庫)の時に感じたなんとも言えない「つまらなさ」を、この「旅の闇にとける」でも感じた。「つまらなさ」としか説明できないのが残念だが、このつまらなさは何に由来しているのだろうか。突き詰めれば、たぶん乃南の文章が嫌いなだけなのだろうか。ごめんなさい。

「旅の人、島の人」(14年 俵万智 河出書房新社)

3.11震災を機に、息子と2人で石垣島に住むことになった万智ちゃんのエッセイ。沖縄も石垣島も行ったことのないところだけれど、この本を読むと、行きたい、住みたいとマジに思う。旅行記とは言わないのかもしれないのだが、毎日の新しい発見が新鮮なまま語られていて、それはそれは楽しく読ませてもらった。
万智ちゃん、いつの間にか母子家庭になってる。きっと楽しいことばかりじゃなかったはずなのだろうが、この本からは手放しの解放感や温かみだけが伝わってきた。

2019年2月18日月曜日

ロバの耳通信「移動都市/モータル・エンジン」

「移動都市/モータル・エンジン」(18年 ニュージーランド・米)


「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズ(01年~ オーストラリア・米)、「ホビット」(12年 ニュージーランド)ですっかり有名になったピーター・ジャクソンのプロデュースの新作が3月1日の封切りということで期待していたのだが、なんだコレと。勝手に盛り上がっていた自分が悪いのだが、宮崎駿の「ハウルの動く城」(04年 邦画)のパクリじゃないか。パクるなら「夢と希望と冒険」もちゃんと入れてくれればいい映画になったのに。残念。
主役のふたりの俳優がダイコン。「ハクソーリッジ」(16年 米)ですごい存在感を出していたヒューゴ・ウィーヴィングも「ロード・オブ・ザ・リング」のエルロンド役から抜け出せず、いつものワンパターン。うーん、配役なんとかならなかったのかな。いや、監督の責任だろうな。CGも音楽もストーリーも悪くないのに。戦闘シーンは迫力あるもスターウォーズから持ってきたのかこれもパクリ感。いや、パクっていることを不満に思っているのではないのだ。鳴り物入りで出しておいて、面白くないのが気に入らないのだ。

2019年2月11日月曜日

ロバの耳通信「アクアマン」「複製された男」

「アクアマン」(18年 米)

DCコミックスはあんまり、というか荒唐無稽過ぎて元々ゼンゼン好きじゃないのだが、2月8日封切りをタイミングにテレビのCMも始まったし、映画評もすごくいいのでネットで見てみた。そう、10日ほど前からネットに中国語字幕版に邦訳字幕の上書きでアップロードされていたのだ。配給元が大手のワーナー(ブラザーズ)だからネットもすぐに消されると思っていたのだが。

で、灯台守の男に助けられた半魚人の女ともうけた男の子が強い男になって正義のために戦うという、雪女+桃太郎みたいな話なのだが、ガマンにガマンを重ねて30分ほどで挫折。CGも音楽もいいんだが、お金払ってみる映画じゃない。アメリカンコミックのヒーローはやっぱり相性が悪い。
ヒーローの母親役ニコール・キッドマンがいつまでも変わらない若さだが今年51歳だと、うーん。

「複製された男」(13年 カナダ)

いちど見て、全然意味不明。何人かの映画批評やらネタバレ付きの解説を読んで、また映画に戻って、ああそういうことだったのかと「多少」の自分流の解釈ができた。主演のジェイク・ジレンホールが退屈で、さすがに続けて3度目はイヤだから自分の気持ちと折り合いをつけた感。

キーとなるのがドッペルベンガー(多重人格)と蜘蛛。初めのシーンで美女に踏みつぶされる蜘蛛、ラストでは妻は部屋いっぱいになっていた大蜘蛛。原題はEnemyだから敵ってことか。で、敵とは誰の事か。主人公にそっくりなもうひとりの自分か、それぞれの妻か、母親か。うーん、本当のことを書けば、ネタバレ解説を挟んで2度見たくらいじゃちっともわかっていない。

監督ドゥニ・ヴィルヌーヴは「メッセージ」(16年 米)、「ブレードランナー 2049」(17年米)のような意味不明SFをわかった風にまとめるのがうまい。グダグダ書いたが、後味の悪さがピカイチの映画。

2019年2月7日木曜日

ロバの耳通信「コール・ドスキン」「リボルバー」

「コールド・スキン」(18年 スペイン・仏)


孤島の気象観測員として派遣された男が灯台守とともに半魚人と闘うーといった、とんでもないストーリーなのだが、意外に面白かった。若い気象観測員が前任者の小屋に移り住み孤独な暮らしを始めるところや、年老いた灯台守と暗くなると大勢で襲ってくる半魚人たちと死闘を繰り広げるところなど、ゾンビ相手のサバイバルゲームを連想させる。火山島である孤島の舞台や、押し寄せる半魚人のCGやらチンケな低予算インディ映画とはくらべものにならないくらい丁寧な作りにすっかりハマってしまった。灯台守の性奴隷にされていた半魚人の女の表情は、どこか「アバター」「シェイプ・オブ・ウォータ」のクリーチャーに似て、なんとも哀しかった。
この映画の主題は孤独を愛していた筈の灯台守も最後には半魚人の女にも愛想をつかされて出てゆかれ、”ひとりにしないでくれ”と叫ぶところか。つまりは、誰もひとりでは生きてゆけないと。冷たい肌の半魚人でも、犬猫でもひとりでいるよりはずっといいのだと。

「リボルバー」(05年 英・仏)

監督ガイ・リッチー、製作リュック・ベッソン、主演ジェイソン・ステイサムと三拍子揃えばゼッタイ面白い筈と臨んだ映画だったが、まー、面白くなかった。ワルモノ役のジェイソン・ステイサムがたくさんのワルモノたちと闘うというだけ。脚本もあるし、錚々たる脇役たちもいるのだから、それなりのストーリー展開もあるのだが、この映画の主題は「妄想」。虚構という映画の中ではあるが、物語はチェスの差し手と格言で味付けされながら進むがこれがやたら抽象的。だから、どれが本当に起きていることなのか、どこからが主人公の想像(妄想)なのかがゼンゼン掴めず、終わったときの疲労感が半端なかった。もちろん、また見る気にもなれない。
「リボルバー」はもともと回転式拳銃のことだが、この映画では金融用語のリボルビングによる資金の回転が重要な役割を持っている。これを説明すると映画のスジを全部説明しなければならないくらいタイヘンなので省略。

2019年2月4日月曜日

ロバの耳通信「ジーノの家 イタリア10景」

「ジーノの家 イタリア10景」(13年 内田洋子 文春文庫)

イタメシやイタリア映画は好きだが、イタリアはあまり好きではない。だから、この本を借りたのはカミさん。読んでいるうちにハマってしまったのは、なぜだろうか。

イタリアについての経験は、ずいぶん前のことだが、シチリア島にある工場に仕事にゆき、週末をローマで過ごしたくらいのことだから、偉そうなことは言えないのだがイヤな経験をいくつかして、イタリアがキライになった。タクシーでぼられた(ホテルでドルに換算して、ぼられたことに気付いた)、コロッセウムに歩いてゆく途中迷ってしまい暗い通りを歩き回ることになってしまった(もともと地図を読むのが得意ではない)、中央駅でひと区間だけ電車に乗ってみたかったのだが切符を買えず(どこで切符を売ってるかもわからず、人混みに挫折)、イタリア広場の近くで安い飯屋を探すが見つからずマックで食べるはめになった(腹が減りすぎて、マックに飛び込んでしまった)、夕暮れのホテル前の通りは人通りが少なく見知らぬ男たちの暗い目つきが怖かった(ホテルの場所が悪かった)、成田行きのアリタリアが何時間も遅れ、機内サービスが最悪だった(初体験のアリタリア航空)ーと、ほとんど八つ当たりに近い理由からなのだが、それまでに訪れたどの都市よりも英語がほとんど通じず不便を感じたとーいうのが不満の元か。

「ジーノの家」は、イタリア在住30年以上の日本女性によるエッセイ集。旅行記のつもりで借りたら、どっぷり浸かったイタリア生活記。興味深い料理の話題のほかは、ほとんどは人情話。情景はイタリアだが、因習に囚われた日本の田舎暮らしを聞いているようだ。
表題となっている「ジーノの家」は歴史のあるあばら家を借りて暮らしているうちに地域の人々と交流を深め、その歴史を知るというちょっとホテルに泊まってくらいではゼッタイに知ることが出来ない「暮らし」を書いている。本人によるあとがきで、長年の外国暮らしでの不便や問題のボヤキに対し、老船乗りに”問題が起きるのはそもそも自分に力量がないからだ”と言われたと。

うーん、その通りだ。これまでの人生で、起きてきたいくつかの不都合は自分の力量のなさだったのだと、あらためて思う。