2019年4月4日木曜日

ロバの耳通信「1922」「セル」

「1922」(17年 米)

あまりに暗い映画なので、途中でwikiを見たら、スティーヴン・キングの原作だと。「Full Dark,No Stars」(10年)というスティーブン・キングの原作の中の短編「1922」(13年 文春文庫)の映画化。Full Dark,No Starsは、真っ暗闇で星も出てないーという意味か。この映画も最初からおしまいまで真っ暗。

農場を売って街に住みたいという妻を殺す、それも息子に手伝わせて。続く不幸に息子も農場も家も失った男の「誰も運命からは逃げられない」のモノローグで終わる映画。男は、自らに巣食うもう一人の悪なる自分に誘導されてしまったと。その悪なる自分のせいですべての選択が全部裏目に出てしまうなんて、キングらしいというべきか。

映画はファーストシーンから、おいおいこれはと期待させるものがある。明るく幸せいっぱいへの期待もいいが、笑顔の向こうにジワジワと染み出す黒いシミを感じさせられるのも捨てがたい。この映画もそういう映画だ。他人の不幸は蜜の味と言う。その不幸が自分に来ない限り、それは娯楽でさえあるのだ。

自殺される妻役のモリー・パーカーが、夫婦の土地の大半を、自分が嫁に来た時に親にもらったものだからアンタ(夫)の好きにはさせないと凄む。農夫の妻の役なのに妙に色っぽくて、夫も息子も自分の意のままに繰ろうとするところが、怖い。それが、ネズミに齧られた顔を晒して、やっぱりネズミに食い荒らされた息子と夜中に出てくるのも怖い。1922年の恐慌の年のアメリカの田舎。果てしないコーン畑の向こうに怖いものを見た。


「セル」(16年 米)

原作者のスティーヴン・キングが脚本も担当し、主演はジョン・キューザックだというから期待して見たのだが、これは酷かった。原作と脚本が酷いのか、製作総指揮も兼任したキューザックが悪いのか。携帯電話のせいでゾンビ化した人々が、人間を襲う。主人公ジョンは別れた妻と息子の行方を必死で探す。それはわかるが、地下鉄運転手役サミュエル・L・ジャクソンの同行が意味不明。キングだから、多少おかしな筋立てでも驚きはしないが、携帯電話が何を悪さするのかとか、ゾンビたちが集団化するワケとか、キーとなる赤いマントの男は誰かとか、携帯電話のアンテナの役割とか、自爆した主人公とその息子がカナダへの道を歩いているのはなぜかとか、なにひとつそれらしい説明もない。もっとなんとかならなかったかと。そりゃ、「ウォーキングデッド」(ゲーム、テレビドラマ)とか近年はゾンビ流行(はや)りだけど、ちょっと安易に流れすぎ。
ほぼ同じ題名なのだが、小児精神科医のジェニファ・ロペスが昏睡状態の少年の脳に入り込んで治療を試みる「ザ・セル」(00年 米)のほうがゼンゼン良かった。

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