2019年8月15日木曜日

ロバの耳通信「流星ワゴン」「妖談」

「流星ワゴン」(05年 重松清 講談社文庫)

死んじゃってもいいかなー”なんて、だれでも1度や2度くらい思ったのでではないか。”アノ時に戻って、やり直しができれば”とかも。ところが、死んでもなにもならないし、ジンセイやりなおしもできないことを、若い頃は薄々、年を取った今はハッキリ知っている。父親と息子の微妙な関係を正直に吐露してくれているから、どっちの気持ちになっても哀しい。死にそうになっているヒトをワゴン車に乗せて追体験させてくれる父子がいいな。なにかでポーンと死んでしまい、わけがわからなくなってしまうのでなく、こうして思い出を反芻させてくれるのならいいなと、マジに思ったりする。重松清って有名な割にはほとんど読んでないことに気付いて、これからちゃんと読んでみようかと。重松を読むのにトシもないだろうけれど、なんだかそんなトシになっていたようだ。

「妖談」(13年 車谷長吉 文春文庫)

”作家になることは、人の顰蹙を買うこと(中略)読者は人の顰蹙を買うような文章を、自宅でこっそり読みたいのである”(「まさか」)とある。すべてベタベタの私小説の短編集。私には車谷が直木賞を獲った同名の映画「赤目四十八瀧心中未遂」(03年 邦画)以来だが、時間が経ってみると、どんな映画だったかよりこの映画に鶏肉の串打ちを生業とする男が登場していて、同情より、底知れない気味悪さを感じてしまったことを憶えている。映画だけの経験から、この「妖談」に取り組んだから、こんどは文章の力で行き場のない絶望に追いつめられ参ってしまった。ここまで心情をあからさまにしていいのかと驚きつつ、それを薄目をあけながらもしっかり覗き見をしている自分に気付き、周りに人がいないことを確かめで安心したりした。語られるのは、特に女の欲に限りがないこと。掌編「二人の母」、話も子供を折檻して殺してしまう母親の物語だから十分に哀しいのだけれども、そこに引用されている濱野正美という俳人の句が冷たく、憂鬱である。寒さに増して滅入るから、冬に読む作品ではない。

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