2020年7月27日月曜日

ロバの耳通信「ビトレイヤー」「モンスターズ」

「ビトレイヤー」(13年 英)

原題のWelcome to the PunchのPunchは、貸しコンテナヤードの名前。ビトレーヤーは、裏切り者とか売国奴の意味。珍しく邦題のほうがスッキリわかりやすいクライム・ミステリー映画。
息子をシンジケートに殺されたギャング(「キングスマン」シリーズ(14年~)でマリーン役のマーク・ストロング)とパートナーをシンジケートに殺された刑事(「スプリット」(17年)「ミスター・ガラス」(19年)などあちこちで大活躍のジェームズ・マカヴォイ)が一緒にシンジケートと闘うという物語。シンジケートの後ろには汚職刑事やら警察のトップ、武器商人、政治家などが絡んでいて、結局どうなったのよというところまではわからないものの、最後の銃撃戦であらかた片付いた模様。終盤で死んでしまう役だけどピーター・マラン(実はまだまだ若いのだけれど、いい感じのジジイ。ワタシはこういうジジイになりたい)ーがいい役もらっていた。製作総指揮がリドリー・スコットだから、ドンパチのすごさは半端ない。英国映画の面白さって何だろうと考えてみる。役者たちかな、やっぱり。

「モンスターズ」(04年 米)

日本の監督、光武蔵人がハリウッドに乗り込み低予算で作ったという触れ込みのインディーズ作品。学園乱射事件で娘を失った父親が、犯人の青年を拉致し貸し倉庫に監禁、拷問の末に殺す。似たような映画があったと思うが、どっちがパクリかなわからない。原題のMONSTERS DON'T GET TO CRYは、いたぶられ泣き叫ぶ青年に、”バケモノ野郎、なくんじゃねえ”と凄むところから。
原作があるのかないのか、間違いなく手抜きの脚本。舞台劇なのに、緊張感がゼンゼン伝わってこない。これで一時間半よく持たせたものだ。会話も拷問もマンネリになった中盤のダレはどうしようもない。ラストもあっけなくヘッドショット。ひとひねりのラストに期待して見続けたワタシを褒めてあげるが、時間のムダだった

2020年7月20日月曜日

ロバの耳通信「未来のミライ」「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」

「未来のミライ」(18年 細田守 角川文庫)

 悩んだあげく、本を先に、次にアニメ。ほかの作品、たとえば「おおかみこどもの雨と雪」「バケモノの子」などもCMでタイトルやおおよそのあらすじは知っていたが、本もアニメも見たことがなかったから、この「未来のミライ」が 細田守に初めて触れた作品。
横浜を舞台にしているし、なんだか親しみも憶えるのだが、平凡なホームドラマのよう。主役が幼児だからイマイチ乗り切れない。特に、幼児語の連続でやや辟易。時代の行ったり来たりは面白かったが。

アニメは、さらに乗り切れず。本と全く同じスジ(アタリマエではない、アニメを生かす工夫は必須だと思う)。アニメはベタ塗りの絵本のようで動きがないし、なにより吹替がどうもね。ということで。

宮崎駿の偉大さを改めて、実感。比べてはいけないのだろうが。


「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」(07年 木谷有希子 講談社文庫)

裏表紙の紹介が”あたしは絶対、人とは違う。特別な人間なのだ”に惹かれて。出だしの数ページがついてゆけない。手探りで少しづつーを何度か繰り返していたら、突然目の前が開け、あとは怒涛の一気読み。
映画のような小説だと感じていたら、舞台の脚本の小説化だと。演出家らしいストーリー展開。人物の書き込みというか、思い入れがすごい。とにかくこの小説、「全員が主人公」。誰も誰にも似ていない。キャスティングも良くて、映画化(07年 邦画)もされ、サトエリ(佐藤江梨子)が女優になり損ねた高慢ちきの女役。サトエリの義理姉の役の永作博美が、いくつかの映画賞を獲ったと。わかる気がする。永作、いい役をもらったな。

2020年7月16日木曜日

ロバの耳通信「チェルノブイリ」

「チェルノブイリ」原題 Chernobyl(19年 米HBO テレビドラマ)

86年チェルノブイリ原子力発電所事故ー以下、<チェルノブイリ>と略記ーの顛末、事故の後始末はいまだ続いているらしいから始まりと言っていいのか。

映画の始まりが怖い。のちに強制労働10年の刑を科される老人(物理学者)が、テープレコーダーに何があったかを録音するシーンのあと老人は外にゴミ出しに出る。カメラはその老人を監視する目にのようだ。Chernobylのタイトルバック。夜、女がトイレから出てきて揺れと音を感じ、窓の外を見ると暗い遠景の向こうに、火事が見える。何事かと起きてきた夫の消防士は燃える発電所と空に向かって真っすぐ伸びている青い光を見た。これが<チェルノブイリ>の始まり。
観客は<チェルノブイリ>で何が起きたかを「おおよそ」は知っているから、これが恐怖の始まりだと体で感じてしまう。日本人ならなおさら、また感じ方の強い弱いはあるにせよ、これが<フクシマ>を思い起こさせてしまう。

<チェルノブイリ>については写真週刊誌やNHKの特別番組などで多くの情報を得たが、あとから考えてみると情報そのものが極めて少なく、「おおよそ」どころか、なぜ事故が起きたか、それをどう片付けようとしているかなど、依然として殆ど知らないことに気付く。多くのドキュメンタリーフィルム、映画も見た。例えば、「カリーナの林檎~チェルノブイリの森~」(11年 邦画)は、直球でのソ連(当時)の誰かや何かを非難することを避け、ただひたすらに放射能によってもたらされる死の病の怖さを訴えた。いい映画だったと、今も思い出すことができるが、巨象のしっぽで巨象のすべてを理解できないのと同じで、底知れぬ怖さだけを抒情的に訴えるにとどまった。残念というより、いまでも巨象は大きすぎるのだ。

「チェルノブイリ」では、当時のソ連指導者たちの絶大な力や隠ぺい、権力にしがみつく者たち独特の横柄さや無能さ、市井の人々の権力者阿(おもね)りも反抗心などなど、すべてがあからさまに描いている。30年以上も前のことなど、真実がどうだったかなど確かめようもないのかも。ただ、この「チェルノブイリ」が、自国ソ連による釈明でなく、敵国アメリカのテレビドラマとして30年後に暴露され、話題になったことに何か意味があるようにも、思う。

<チェルノブイリ>のあと、報道番組や新聞などがソレを「おおよそ」知ることはできたが、思い起こしてみると「おおよそ」のままではなかったか。恥ずかしい話ではあるが、技術という仕事に長く携わり、原子力にも多少の知識も持っていたはずなのに、この大事を「おおよそ」の理解で、そのままにしていた。

wikiで<フクシマ>をチェックすると、何が起きたかが細かく時系列で整理され、事故の原因までさかのぼることができる。wikiに欠けているのは、当時の政治の指導者たち、企業幹部たちの行動の履歴。
事故そのものが片方の車輪だとすると、曲がりなりにもこの事故に対処しようとしていた(筈の)関係者たちの行動履歴がもう一方の車輪ではないか。怖いのが事故そのものだけ検証することにしていると、また、どちらかあるいは両輪で「まちがい」を犯すのではないか、そんな畏れを感じる。

「チェルノブイリ」では、当時の最高指導者(名前こそ出ないが額に大きなシミのあるあの人)や、大臣たち、なぜか後処理の責務を負わせられた上級政治局員、発電所の幹部から担当者などのヒトの動きをドラマ化して観客に明かし、居合わせたというより、原子炉や放射能について詳しかったばかりにこれも何かの責任を負わされた物理学者たちが観客にも難しいことを、わかるように説明してくれた。

繰り返すが「チェルノブイリ」が実際に起こったこととの違いとの検証ができていないかもしれないにせよ、わかりやすいテレビドラマ化にすることで顛末をかなり明らかにするのに30年以上かかった。放映されたアメリカ国内で大きな話題になり、日本でも有料チャネルでの放映が始まっている。映画雑誌でも騒いでいるし、ネット時代の今日、世界の多くの人々が見ることになると思うが、こういう形でもいいから

2011年の<フクシマ>「公開」されるのはいつになるだろうか。

2020年7月11日土曜日

ロバの耳通信「5」「居酒屋兆治」

「5」(10年 佐藤正午 角川文庫)

どうでもいいことだろうが「5」には「ご」とフリガナがついていて、あとがきもなかった。作家の津田伸一と女友達たちの物語なのだが、実にイライラする男。辟易するほど嫌らしい男。気に入らないのは無責任、気分屋、浮気者、お調子者などイヤな形容詞がどれもあてはまるこの男が実にモテること。こう主人公を辟易するほど嫌らしいと感じさせるのも佐藤の筆力か。尤も、出てくる女性たちも皆オカシイのばかりなのだが。

導入部がSFっぽく、新婚時代をとっくに過ぎダレてしまった夫婦が貰い物のバリ旅行に行き、夫が空港でたまたま一緒になった手のモデルの女と手と手を合わせることで、女の超能力が夫に移り・・と、結構フクザツで長い前段、ここで説明するのもばかばかしい物語があり、それに佐藤の巧みな語りで知らないうちにハマってしまう。それからあれよあれよという間に、津田伸一のモテ話につきあわされることになるのだが、前述のオカシな女たちが次々に現れては、消えでやっぱり途中で放り出すことができなくなったのは、一生モテることのなかったワタシのモテ男津田へのジェラシーのせいか、うん、カンタンにいえば羨ましかったのだ。だから、ラストで津田がすべての女性たちに捨てられ、思いっきり不幸になってほしかったのだが、佐藤はそうはしなかった。

同じ佐藤の「鳩の撃退法」(18年 小学館文庫)の主人公も作家の津田伸一で、書評はずっと「鳩」のほうがいいらしいから、こっちも読んでみたい。

「居酒屋兆治」(86年 山口瞳 新潮文庫)

有名な作家らしいが、初めて読んだ。いや週刊新潮のコラムで著者の名前は憶えていたのだが、本としては初めて。高倉健主演の同名の映画(83年 邦画)もボンヤリ覚えていたのだが。キャバレーの女が幼なじみの居酒屋の主人に想いを寄せるというのが本スジで、同級生やら元の職場のの同僚とかが居酒屋に出入りし、サブストーリーが語られるのだが、ハナシがアッチに行ったり、コッチに行ったりで落ち着かない。客の殆んどが(大嫌いな)酔っ払いだし、突っかかるような話し方も気に入らない。著者の山口はサントリーの宣伝部でコピーなんかも書いていたというから、酔っ払いの話に馴れているのだろうが、酔っ払いに散々なメに遭ってきた下戸のワタシには全然面白くない。

映画の方も、不幸な女「さよ」が大原麗子、高倉健の妻「茂子」役が加藤登紀子だったとか配役のかなりを憶えている割に内容をおもいだせないのは、いい思い出のない居酒屋とか酔っ払いがキライという同じ理由か。

2020年7月6日月曜日

ロバの耳通信「どこかのホテルのロビー」「きいろいゾウ」

 「どこかのホテルのロビー」

<夢の中では、いまの妻ー彼女はずっと前に会っただけ。スナップ写真ももらったけれど時間がたってるから今日、会ってはっきり彼女と認識できるかかなり不安。電話で何度か話をしているから声はわかるつもり。こうしてホテルのロビーでドキドキしながら待っている。>

ロビーの椅子に座っている私の横に女物のコートがたたんで置かれた。赤っぽいコートで、グレーの裏地が見えた。彼女とは違うような気がして、コートを置いた女を見上げると、彼女よりずっと年上のようだ。再びコートに目を落とし、彼女には似合わないそんな気がして、またエントランスに目を凝らす。
毛足の長い、うす茶色のカーペットの模様。左手は雨の降る通り。なかなか来ない彼女。
今日は、ここで待ち合わせて、どこかに行くんだったっけ。映画とかじゃなく、温泉とかそういうところへ一緒にお泊りに行くんじゃなかったっけ。旅館の予約とかした覚えもない。揃いの浴衣で料理をつつくという想像はさっきまで見ていた旅番組の影響かも。
不純な期待感と、具体的なことは何も思い出せない不安感に目が覚めた。
photo: Pexels

「きいろいゾウ」(12年 邦画)

涙もろくなったのはトシのせいか、とにかく泣けた。鼻水垂らしながら見た。田舎に住む若い夫婦のツマ(宮崎あおい)とムコ(向井理)のラブストーリー。美しい砂浜も緑豊かな風景もある古民家。そんな田舎暮らしにあこがれたりもするが、この映画のオチは誰もが抱えている”傷”。当たり前だが、楽しい田舎暮らしをしているだけの夫婦の物語なんて原作の西加奈子は書かない、たぶん。

同名の原作は読んでいないから勝手な感想を書くが、ぶっ飛んでいて難解な西加奈子の原作を<たぶん>超えている優しさが映画から伝わってきた。浸っているうちに哀しい過去を突然突き付けられても、うろたえずにまた優しさに戻ることができたのは、これ以上はないのじゃないかと思うキャスティングのせいか。ボケ始めた老女(松原智恵子)も、町から来た男の子に想いを寄せる小学生(浅見姫香)も、声だけの出演だが、蘇鉄(大杉漣)、野良犬(安藤さくら)、ヤギ(柄本佑)、蜘蛛(高良健吾)らの個性派たちが目立たずに語りかける。

脚本も音楽もいい。伊勢の田舎で撮影されたという風景は癒されるし、ツマとムコの食事シーンやムコとの気持ちのすれ違いから、寂しくなったツマが庭の蘇鉄の樹や蜘蛛やヤギやイヌと話をするところがいい。カメラの長回し映像が、こんなにココロに伝わるのだと忘れてしまっていた。やっぱり、いい映画はいい。

2020年7月3日金曜日

ロバの耳通信 旅の3冊「旅の窓」「ある日、カルカッタ」「アイスランド」

勤務先までの約2時間の毎日は「旅」だった。

「旅の窓」(15年 沢木耕太郎 幻冬舎文庫)

「旅の窓」は、雑誌の連載を見開きの左に写真、右にエッセイにして本にしたもので、81枚の写真がいい。エッセイは年を重ねた沢木らしい軽妙な語りもあるが、孤独な旅を愛した者の気持ちがジワジワ伝わってきた。

沢木を初めて読んだのは「深夜特急」(86年~ 沢木耕太郎 新潮社)だった。色焼けしたハードカバーの本を古本屋で見つけて立ち読みし、出だしの文章にに引き込まれたワタシは揃いの3巻を紙袋に入れてもらい、家に持ち帰ろうとして我慢できず駅までの途中にあったドトールに腰を据え第1巻(第1便)を読んだ。家に帰って次の第2巻を読もうと思っていたのだがソコは貧乏人根性。3巻とも読んでしまうのが惜しくて、また第1巻から読んだ。「深夜特急」は文庫本(6冊)にもなったから、ある時期ずっと1-2冊はいつも通勤カバンの中に入っていて、時々牛の反芻みたいに繰り返し読んだ。そのあと、「人の砂漠」(77年)、「一瞬の夏」(81年)、「檀」(95年)、「無名」(03年)などを読んできて、図書館で全8巻の「沢木耕太郎ノンフィクション」(02年~ 文藝春秋社)を見つけてしばらくはそれにハマった。

「ある日、カルカッタ」(01年 俵万智 新潮社)

万智ちゃんがずっと若い頃にかいた「サラダ記念日」(89年 河出文庫)の感性も、妊娠から出産の気持ちを文字にした「生まれてバンザイ」(10年 童話屋)の優しさもない、万智ちゃんの中途半端な時代の本。だから、思いっきりつまらない。初めてのインド旅行について何を書いて、どんな歌にしたのか期待して本を開いたのに、映画人や出版社の方、総勢6名の団体旅行で行ったカルカッタとガンジスのペラッペラの死生観とか書いてくれてもね。”マリア・テレサと会いました”の記念写真とかね、なんだよソレ。何ページおきかに出てくる歌もね、ゼンゼン心こもってなくて、万智ちゃんじゃないよね。

「アイスランド」(15年 椎名誠 ナショナル・ジオグラフィック)

椎名の旅行記って、面白い。いつもの沢野(ひとし)の楽しい挿絵はないけれどナショナル・ジオグラフィックのスゴイ写真があって、それに負けないくらいの椎名の旅を愛する文章があったね、いつもの。椎名の旅の本読んで、いつも思うことだけれども、アイスランドに行きたくなった。多分、とかじゃなく、もうゼッタイ行く機会なんて来ない。いや、旅行なんてイキオイで行かないとどこにも行けないし、パスポートも切れちゃったから行けないけどね。
椎名と言えば、ほんのこの間、若い頃のことをまとめた「本の雑誌 血風録」(05年 椎名誠 新潮文庫。600ページ近くあるけれど、コレは椎名のセイシュン(でもないか)半生記だから、椎名好きなヒトにもっと好きになってもらうために是非勧めたい)を読んで、とっても苦労したヒトだということがわかった。だから、旅日記とかにヒトガラとかが滲み出るのだろうかね。「アイスランド」のことを書いたつもりが、「本の雑誌 血風録」の推薦文になったみたいだけど、まあ、いいよね。あ、この本の表紙がいいんだよね。