2020年7月16日木曜日

ロバの耳通信「チェルノブイリ」

「チェルノブイリ」原題 Chernobyl(19年 米HBO テレビドラマ)

86年チェルノブイリ原子力発電所事故ー以下、<チェルノブイリ>と略記ーの顛末、事故の後始末はいまだ続いているらしいから始まりと言っていいのか。

映画の始まりが怖い。のちに強制労働10年の刑を科される老人(物理学者)が、テープレコーダーに何があったかを録音するシーンのあと老人は外にゴミ出しに出る。カメラはその老人を監視する目にのようだ。Chernobylのタイトルバック。夜、女がトイレから出てきて揺れと音を感じ、窓の外を見ると暗い遠景の向こうに、火事が見える。何事かと起きてきた夫の消防士は燃える発電所と空に向かって真っすぐ伸びている青い光を見た。これが<チェルノブイリ>の始まり。
観客は<チェルノブイリ>で何が起きたかを「おおよそ」は知っているから、これが恐怖の始まりだと体で感じてしまう。日本人ならなおさら、また感じ方の強い弱いはあるにせよ、これが<フクシマ>を思い起こさせてしまう。

<チェルノブイリ>については写真週刊誌やNHKの特別番組などで多くの情報を得たが、あとから考えてみると情報そのものが極めて少なく、「おおよそ」どころか、なぜ事故が起きたか、それをどう片付けようとしているかなど、依然として殆ど知らないことに気付く。多くのドキュメンタリーフィルム、映画も見た。例えば、「カリーナの林檎~チェルノブイリの森~」(11年 邦画)は、直球でのソ連(当時)の誰かや何かを非難することを避け、ただひたすらに放射能によってもたらされる死の病の怖さを訴えた。いい映画だったと、今も思い出すことができるが、巨象のしっぽで巨象のすべてを理解できないのと同じで、底知れぬ怖さだけを抒情的に訴えるにとどまった。残念というより、いまでも巨象は大きすぎるのだ。

「チェルノブイリ」では、当時のソ連指導者たちの絶大な力や隠ぺい、権力にしがみつく者たち独特の横柄さや無能さ、市井の人々の権力者阿(おもね)りも反抗心などなど、すべてがあからさまに描いている。30年以上も前のことなど、真実がどうだったかなど確かめようもないのかも。ただ、この「チェルノブイリ」が、自国ソ連による釈明でなく、敵国アメリカのテレビドラマとして30年後に暴露され、話題になったことに何か意味があるようにも、思う。

<チェルノブイリ>のあと、報道番組や新聞などがソレを「おおよそ」知ることはできたが、思い起こしてみると「おおよそ」のままではなかったか。恥ずかしい話ではあるが、技術という仕事に長く携わり、原子力にも多少の知識も持っていたはずなのに、この大事を「おおよそ」の理解で、そのままにしていた。

wikiで<フクシマ>をチェックすると、何が起きたかが細かく時系列で整理され、事故の原因までさかのぼることができる。wikiに欠けているのは、当時の政治の指導者たち、企業幹部たちの行動の履歴。
事故そのものが片方の車輪だとすると、曲がりなりにもこの事故に対処しようとしていた(筈の)関係者たちの行動履歴がもう一方の車輪ではないか。怖いのが事故そのものだけ検証することにしていると、また、どちらかあるいは両輪で「まちがい」を犯すのではないか、そんな畏れを感じる。

「チェルノブイリ」では、当時の最高指導者(名前こそ出ないが額に大きなシミのあるあの人)や、大臣たち、なぜか後処理の責務を負わせられた上級政治局員、発電所の幹部から担当者などのヒトの動きをドラマ化して観客に明かし、居合わせたというより、原子炉や放射能について詳しかったばかりにこれも何かの責任を負わされた物理学者たちが観客にも難しいことを、わかるように説明してくれた。

繰り返すが「チェルノブイリ」が実際に起こったこととの違いとの検証ができていないかもしれないにせよ、わかりやすいテレビドラマ化にすることで顛末をかなり明らかにするのに30年以上かかった。放映されたアメリカ国内で大きな話題になり、日本でも有料チャネルでの放映が始まっている。映画雑誌でも騒いでいるし、ネット時代の今日、世界の多くの人々が見ることになると思うが、こういう形でもいいから

2011年の<フクシマ>「公開」されるのはいつになるだろうか。

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