2022年1月30日日曜日

ロバの耳通信「オールド」「砂の器」

 「オールド」(21年 米)原題: Old

大ファンのナイト・シャマランの監督作品ということで動画サイトに網を張って待ち構えていた映画。監督・製作・脚本と一人で頑張ったようだが、配役に難ありだな、いつも感じることだけど。まあ、面白かったからいいか。

南国のリゾート地を訪れた家族がホテルのマネージャーに招待されプライベートビーチに。そこには他にもいくつかの家族が招待され、一時の楽しい時間を過ごすうち、そのビーチは時間の流れが早く人々がどんどん歳をとっていることに気づく。夫婦はいつのまにか老人になり、幼い兄妹もあっという間に青年に。時間の流れが異常なことに気付いた人々は、なんとかこのビーチを脱出しようとするが、うまくゆかず溺れ死んだり、年老いて死んでしまったり。

ここをどうやって脱出したかはちょっとややこしいので省略。このプライベートビーチで行われていたのが「治験」。つまりは、よくわからない理由で時間の流れが早くなったこのプライベートでは、疾病に対する薬の効果をごく短時間で確認できることを知った製薬会社がこのリゾート地の持ち主で、いろんな疾病を持った人々を招待し治験をしていたというのが映画のタネ明かし。

いつものシャマランらしく、不思議な現象に人々が戸惑い、もちろん観客もワケわからず。タネ明かしのあとに、最初から見て各シーンをゆっくり反芻。


「砂の器」(74年 邦画)

同名の原作(松本清張)を何度か読み、テレビドラマも見た記憶があったがそれほど印象が強く残っていたわけではない。ただ、何度も見かけた映画のポスターだけは強く記憶に残っていて、いつかこの映画を見たいと思っていた。

映画を見て、この歳までこの映画を見ていなかったことを悔しく思った。脚本も、撮影も、音楽も、錚々たる配役もこの感動の気持をどう表していいかわからない。初めて見た映画なのに、どの風景もみな涙が出るほど懐かしく、俳優たちが映画の中で生き生きと、また哀しく動いていた。約3時間の長編だが、どのシーンも愛おしい。どうしても、忘れられない役者が加藤嘉。ハンセン病のため妻に去られ、故郷を追われて幼い息子と巡礼姿で放浪するお遍路の旅を続ける本浦千代を演じていた。痴呆症の老人役の加藤と少年の交流を描いた「ふるさと」(83年)も忘れがたい作品。

また原作を読んで、またこの映画に戻ってみよう。


2022年1月25日火曜日

ロバの耳通信 「ドライブ・マイ・カー」「母をお願い」

 「ドライブ・マイ・カー」(21年 邦画)

カンヌ国際映画祭で脚本賞など各地での映画賞を獲ったとのニュースで、本作の予告編やら批評ブログを横目で見ていたが、ゴールデングローブ賞(旧外国語映画賞)を獲ったとのことで、映画ミーハーとしては我慢できずに動画サイト漁り。試写版で中国語と英語の字幕付き、画面も粗く音響も酷い動画にもかかわらず、満足度は最高。

原作(短編集「女のいない男たち」村上春樹 文春文庫)もいいのだろうが、短編を継ぎ合わせ3時間の長編映画に仕上げたのはやっぱり脚本や監督(ともに濱口竜介)の力だろう。いつもシレっとした無表情の西島秀俊が、この映画の主人公(演出家役)にピッタリはまっていて感心した。妻役の霧島れいか、ドライバー役の三浦透子や劇団員役の岡田将生がそれぞれの個性を活かしながら作品のジグソーパズルにピッタリはまっていて、配役という仕事の重要性を改めて実感。

車の中での長い会話やモノローグにも似た手話、劇中劇となる「ワーニャ伯父さん」(チェーホフの戯曲)のセリフなど、いままでの映画でほとんど出会うことがなかったストーリー展開に、世界の映画賞獲得の意味を悟った気がする。この邦画は見逃せないと思うが、昨今のネット小説を原作とした青春モノやアニメ流行りの昨今の映画観客にどう受け入れられるのだろうか。


「母をお願い」(11年 申京淑 安宇植訳 集英社文庫)

韓国のベストセラー本。この本のなかで一番堪えたのは、伴侶をなくしたバカジジイの物語(第三章)。持って行き場のない寂寞感。夜にこういう本を読んではいけないよ。

普通に読み終わって、夜中に昔のことを思い出し辛くなってしまった。亡くなったばあちゃんのこと。あんなに可愛がってくれたのに、ありがとうの一言も返さないうちに死んでしまった。

いま、いちばん怖いのは、カミさんがワタシより先に死んでしまうこと。ワタシが先に死んでしまえばワタシは楽だと思うが、残されたカミさんがかわいそうかなと。

自分で決められることじゃないから、悩んでもしょうがないのだが。

2022年1月20日木曜日

ロバの耳通信「森に眠る魚」「星の見える家」「すべて真夜中の恋」「いつもの道、ちがう角」

「森に眠る魚」(11年 角田光代 双葉文庫)

女性銀行員による横領を題材にした「紙の月」、誘拐犯の女「八日目の蝉」や月刊文芸誌で読んだ多くの短編ですっかり馴染みになった気でいた。「森に眠る魚」は5人のママ友たちの物語。ママ友というだけで、そう親しくなれるのだろうかとか、イヤな奴とかいないのだろうかと、家の近くにある公園によく集まっている幼稚園のママ友たちを観察していたのだが、そのママ友たちがこの作品の主人公だ。うーん、こういう世界はイヤだな。子供を縛られているようなものだから関係を切ることも自らだけを圏外に置くこともできない、まるで牢獄じゃないか。
ガマンにガマンを重ね、500ページ長編の四分の一を超えたところあたりで挫折。「八日目の蝉」では少なくなってゆく残りのページがもどかしく思うほどだったのに、この「森に眠る魚」は読み進めるごとにストーリーも煮詰まって行き、嫌気が溜まった。読んでいて続きを読むことをイヤだ、もう沢山だと思わせるほどの角田の筆のチカラも、ある意味すごいと思う。

「星の見える家」(09年 新津きよみ 光文社文庫)

オリジナル短編集と名打っていたが、7編のうち書下ろしは1編だけ、のこりは月刊文芸誌「小説宝石」で既出。まあいいか、そこは。あとがきで別の女性作家が”幸せな人が書いた小説は面白くない、という言葉を耳にすることがあるが、新津さんに関しては、その言葉は通用しない。”とヨイショ解説を書いているが、そうかな。短編だからとガマンして全部読んだが、なんだかどれも作り物、インスタ狙いだけのキレイだがホントはうまくないケーキのよう。7編あればひとつぐらいグサっとくるのがあってもいい筈なのに。
相性というのだろうか、どうもよくない。wikiで作品をチェックしたらものすごい数で、ほんのいくつかだが題名に記憶があるが、題名を思い出してもナカミを思い出せないのはやっぱりそういうことか。そういえば新津の夫<小説家の折原一>の作品もほとんど読んでいない。図書館や書店ではまずは背表紙から読む本を選んでゆく。ほとんど無意識というか反射的に折原一を対象から外している。赤川次郎とか、逢坂剛、新しい方では乙一とかと同じネコマタギ。やっぱり相性というものか。ワタシのソレは世の中のソレとはかなりずれているようだ。

「すべて真夜中の恋」(14年 川上未映子 講談社文庫)

コレ女学生が書いた本か。”芥川賞作家が描く究極の恋愛”って、うん文章は誌的で十分情緒的。「すべて真夜中の恋」はスキと、キライの境界にあるから、芥川賞受賞作「乳と卵」(08年 文春文庫)読んでみようか・・な。

「いつもの道、ちがう角」(05年 松尾由美 光文社文庫)

裏表紙の”ダーク・ファンタジー”という解説があったが、ミステリーという名のこねくりまわした作り話。軽くて、ウイットがあったり、ちょっとゾクっとさせたりの7短編。待ち時間にちょっと読めるが、何も残らない。肩がこらなくていいか。

2022年1月15日土曜日

ロバの耳通信「淵に立つ」「不安の種」

「淵に立つ」(16年 日・仏合作)

日・仏合作と言いつつ、スタッフに誰もフランス人は見当たらない。製作会社に日・仏のテレビ放送会社の名前があるが、映画を見てなるほどと感じたところが、脈絡のなさか。
日本の映画は、ストーリーが途中で切れることはほとんどなく、稀にそういう切り方をしても、あとで追憶シーンとかで必ず繋ぐ。フィルムがブツッと切れて、また別のコマから始まり、あれ今の何だみたいなところは、フランス映画にしかみることができないところだが、この「淵に立つ」にはソレが多かった。監督も脚本も日本人だから、誰かの影響をうけたのかもしれない。

殺人の罪で服役していた男を浅野忠信が演じているが、精神病ではないかと思わせる表情の変化は浅野自身によるものかと疑うほどの好演。鉄工所長の妻役の筒井真理子が印象に残った。敬虔なキリスト教信者でありながら、夫の友人と不倫に走る。裸も恍惚の表情もないのに、この色っぽさは何だ。知らなかったが、ドラマとかで結構有名な女優らしい。
見終わって、この映画の主題は何だろうと考えてみた。罪と罰、善と悪、生と死、そんな対比するものの淵にワレワレが立っているということか。無常や倫理観の異なる異質さを感じてしまったのは私の日本人の血のせいか。

「不安の種」(13年 邦画)

同名の漫画雑誌連載作(07年~中山昌亮「週刊少年チャンピオン」)の実写版だという。映画は原作漫画の気味悪さ、不条理さをよく出している。コントラストの強い映像が気味悪さの汁を付けたまま、見ている者の体にまとわりついて、払っても払っても取れない。

オープニングは道路を進むメダマたちの大群。神経のスジや血管を引きずったメダマたちを、ぶちぶちと車が轢いてゆく。メダマは不幸の始まり、気味悪い歌を車の中で合唱する幸せそうな一家。あ、ヤバいと思わせる。そのあと映画の中に出てくるのは、バケモノやメンヘラ(同列に置いてはいけないのだが、とにかく気味が悪いのは一緒)。
見はじめからラストのまたまたメダマたちの行進まで、不安だらけで気の休まる時間はない。半端な怪談映画より怖いぞ。続編、期待。

2022年1月10日月曜日

ロバの耳通信「孤独の歌声」「浄夜」

 数日前にこの冬何度かめの雪。窓から見える屋根たちは一様に白くなったが、もうすっかり溶けた。北国はもっと寒いのだろうなと他人事のように思う。とはいえ、今日もこの寒空、どこかに出かける気なぞまったくない。年末に借り出した図書館の文庫本を積んで、読み始めたらまたハマった。テレビもネットも飽きていたから、久しぶりの活字がなんだか嬉しい。

「孤独の歌声」(05年 天童荒太 新潮文庫)

文庫版も初版97年、私が図書館から借りだした05年版が25刷とある。結構読まれている本らしい。「 永遠の仔」、「悼む人」などいくつか読んできて、天童荒太の作品には馴染んでいたつもりだったのだが、本作はそれまで読んだ作品とはオモムキの異なる衝撃の小説だった。そういう感想をカミさんに話したら、天童荒太ってそういう本、寂しすぎてメゲて暗くなってしまうからあまり好きじゃないと。さらに、体調を崩しやすい冬なんかに読んだらダメだよと、一蹴。強く納得してしまった。

コンビニでアルバイトしながら歌手を目指す<おれ>と、猟奇連続殺人犯の<彼>、それを捜査する<わたし>の物語。3人とも、いや登場人物が皆、孤独。それも救いようのない孤独。また、<彼>の猟奇が生々しくクライムノベルの色が濃く、若い頃妖しい挿絵つきの犯罪実話雑誌をドキドキしながら読んだことを思い出した。明かしてしまえば、自分のなかの猟奇性を覚まさせられたいうことだろうか。

とにかくカミさんの言いつけを守って、遠ざけていたほうが良さそうな天童荒太。

「浄夜」(08年 花村萬月 双葉文庫) 

最後まで読みきれなかった。一時はのめり込み著作リストにレ点を付けながら制覇しようとしたことのある花村萬月。今回は、運が悪かったのか、最初から辟易。過食嘔吐とか、マゾヒズムとかそれらも病気といえば病気なのだろうからバカにしてはいけないのだが、こうずっと繰り返されると耐えられない。約500ページの半分くらいまでなんとか我慢していたが嫌になってしまった。

夢想家の私が小説を読む時は、登場人物に自分を当てはめている。刑事になったり犯罪者になったりでいつも主人公とは限らないが、思いっきり役になりきって浸ってしまう。

「浄夜」の登場人物はどれもなりたくない役。普通なら、極悪非道のヤクザとかヤクザに愛されてしまう清純女子高生とか、まあ、浸ることで小説という仮想空間をめいっぱい楽しんでいるのだが。年老いて、あるいは疲れてしまって、花村の世界に付いて行けなくなっているのかもしれない。今回、気づいたことだが、花村作品を読むには、かなりのエネルギーが要るのだ。そのエネルギーがなくなったかも、と、今おそれている。


2022年1月5日水曜日

ロバの耳通信「最後の決闘裁判」「プライベート・ウォー」

 「最後の決闘裁判」(21年 英・米)原題:The Last Duel

1386年のパリでの決闘裁判を記録したノンフィクションを元に作られた歴史映画だと。欧州の歴史映画は苦手だ。歴史をほとんど知らないし、人物の名前や場所にも馴染みがないから。ただ、監督がリドリー・スコット。主要キャストとしてマット・デイモン、アダム・ドライバー、ベン・アフレックとあったから公開前から期待はしていたのに、だ。

甲冑を着けた中世の戦闘シーンやラストの決闘はリドリー・スコットらしい迫力と血生臭ささで、見るべきところもあったが、領地の取り合いやら、主従の因縁やら、この騒動のモトとなった女の取り合いやら、ストーリーそのものはゴシップ誌なみで辟易。

これ以上ないと思っていた配役たちが全く役に合っていない。第一、マット・デイモンが中世フランスの騎士のガラか。その妻を演じたジョディ・カマーは表情のないワラ人形。ベン・アフレックなんて、お前ホントに出演してたかと疑うくらいの存在感のなさ。唯一の救いどころはマット・デイモンの仇役として、決闘に負けたばかりに死体まで雑に扱われてしまうアダム・ドライバーの清々しいくらいの悪役。イイ男の悪役って、似合うよね。

どうだろう、こういう欧州歴史モノ、日本じゃ流行らないんじゃないかな。第一、邦題が良くない気がする。


「プライベート・ウォー」(18年 米)原題:A Private War

12年シリアで取材中にシリア内戦で死亡した新聞記者メリー・コルヴィンの伝記映画。01年のスリランカ内戦の取材中に左目を失い、隻眼の戦場記者として有名な女性だったらしい。

メリー役のロザムンド・パイク(「ゴーン・ガール」14年 米)が代表作)が戦場体験のトラウマを抱えながらも、戦場をはなれることが出来ない気丈な女記者を演じていて、ますます好きになった。戦闘シーンはそこが実際の戦場と見紛うほどの出来で、ドキュメンタリー映画を超える臨場感。ラストからタイトルエンドに流れる歌が甘くて、哀しくて始終タバコを離さずピリピリしていたロザムンド・パイクの表情を思い出し、なぜか泣きそうになった。

「メリー・コルヴィンの瞳」(18年 英 Under the Wire)という同じくメリー・コルヴィンの実録ドキュメント映画があるらしいので、コレも見ようかとも思うが、なにせ「プライベート・ウォー」を見た理由がロザムンド・パイクだったからという不純なワケだから、さてさて。