2017年8月30日水曜日

ロバの耳通信「柳橋物語」

「柳橋物語」(山本周五郎 63年 新潮文庫)

貧しかったり、病気をしたり、思いが通じなかったりいろいろなことが主人公おせんやその周りの人々に起きるのだが、みんな決して不幸なままで終わってはいない。身が辛くなるほどのもどかしさや、幸せになってほしいとの心底からの思いを感じたりするのだが、江戸時代という設定からかわが身を同化させることもできず活字を追っても泣けなかった。こういうのを人情噺というのだろうか。落語家に語ってもらえば思い切り泣けたかもしれないが、不幸がこれでもか、これでもかと語られると行け出せなくなることがわかっているから泣けなかったのだ。
山本周五郎を知ったのは「さぶ」(65年 新潮文庫)からで、初めて本で泣いた作品。
「樅ノ木は残った」(58年)、「赤ひげ診療譚」(同年)、「五弁の椿」(59年)、「どですかでん」「季節のない街」62年)など映画やテレビドラマでかなり見ているが、意外に読んでいないことに気付いた。周五郎の研究者の竹添敦子が、女性を主人公にした周五郎の底本をシリーズ化(山本周五郎中短編秀作選集 05年~ 小学館)しているということがわかったので、ここから始めたい。

2017年8月24日木曜日

ロバの耳通信「無垢の領域」

「無垢の領域」(13年 桜木紫乃 新潮社)

桜木は中学生の頃、「挽歌」(56年 原田康子 61年新潮文庫)を読んで文学に目覚めたという。重い霧のような同じ雰囲気があるがるが、桜木のほうがもっと重いか。桜木の著作は、目を瞑っていると強くなる感覚、例えば匂いや音についての描写が多くて、どうしても引きずられてしまう。セリフがストレートじゃなくて、二度読みすると棘(トゲ)に気付いてしまう。セリフの間の短い文章もセリフを繋いでしまうから、文章に感情の切れ目がなくなる。たとえば、母が娘に小言を言い、そのあとが、こうだ

”もう好きにしなさいと母が言う。ずっと好きにしてきた、と思う。”(224p)

切れ目ない共感という意味では悪いことではないのだろうが、物語にドップリ浸かってしまう。その結果、読み終わってもメソメソした感情が払拭できずに、別の本に感情を移せないでいる。
純香という知的障害(らしい)女のコが哀しい。この本では結局死んでしまうのだが、そうでなかったらやりきれない。

この本のなかで、「シェルタリング・スカイ」(90年英映画、91年新潮文庫)が紹介されるが、こちらは砂漠を旅する中年夫婦の旅物語だからストーリーは全く違うのだが、何かが似ている。届きそうで届かないヒトのココロの間の距離みたいなものか。

2017年8月17日木曜日

ロバの耳通信「蜩の記」

「蜩の記」(10年 葉室麟 祥伝社)

10年後の切腹を命じられた侍の物語。日本文学者のロバート・キャンベルがあとがきを書いていて同じところで気持ちが通じていることを知り、なんだか嬉しかった。著者のみならず、ほかの読者との共感は読書の喜びだが、こういう時代物を読む人はだんだん少なくなるのだろうか。

為すことを終え「この世に未練はない」と言い切る武士に、僧侶が「未練がないというが、それは残されたものの心を気遣ってはいないと言っているようなものだ。この世をいとおしい、去りたくないと思って死ななければ、残されたものが気の毒だ」(拙訳)と諭す。原文では、当時の言葉で、「残された者が行き暮れよう」なのでかなりニュアンスは異なるとも思うが、出だしから最後の一文「蜩の鳴く声が空から降るように聞こえる。」まで、武士の矜持がそれを知らない自分にさえ滲み込むように伝わってきた。

同名で役所広司らが演じた映画(14年 邦画)がありテレビ放映されたものを録画しているので、原作をもう一度読み返す前に見ようと思う。原作で十分に読み切れなかった御家騒動、これがやたらと込みあっていてわかりにくかったので映画で補おうかと。こういう映画を自宅で見るには、雨の日がいい。こう猛暑が続くと、雨が恋しい。

ここまで下書きして数日置いて、別の切り口が見えてきた。矜持とは何かとまた考えてしまった。言い訳もせず泥をかぶり、不実なく期限の切腹まで過ごしたこの武士に、田舎の貧しいが平穏な暮らしなど、少しはいいこともあったのかもしれないが、自分には決してできないと。

すこし長く生きてきて気が付いたことだが、次から次へと失敗を重ね、不都合なことが続いている、いまもだ。時間を戻すことができたら、同じ選択を決してするまいとはおもうが、いかんせん手遅れだ。選べるならば、生まれることさえ躊躇するにちがいない。

夕方にベランダに立ち、涼しい風のなかに混じるどこかの夕餉の支度のにおいに、小さな幸せを感じることはあるが、貯まった不満や押し寄せる不安の大きさは法外に大きい。人生の喜びと苦しみはバランスがとれていないと感じていて、さらに悲しむべきは年を重ねるにつれ天秤の傾きが大きくなっていることに気づく。

2017年8月13日日曜日

ロバの耳通信「ポンペイ」

「ポンペイ」(14年 米)

ウリが「バイオハザード」監督最新作だと、確かにそうだがほかに良いキャッチにしてくれてもよかったのでは。「バイオハザード」(02年~ 米)はファンだし、ミラ・ジョボビッチを妻に持つポール・ウィリアム・スコット・アンダーソン監督は好きな監督だけれども、「ポンペイ」の出来はイマイチだった。CGのおかげでヴェスヴィオ火山の爆発でポンペイの町が焼きつくされるシーンは圧巻で、3D画像を楽しむ映画なのだろうが、剣闘士マイロ役のキット・ハリントンもポンペイの大商人の一人娘カッシア役のエミリー・ブラウニングもダイコン。好き合うふたりなら情感を漂わせてくださいな。「マトリックス」シリーズ(99年~米)ではトリニティー役、新作ホラー映画「バイバイマン」(17年米)では女刑事を演じた名優キャリー=アン・モスも本作ではただの添え物。なんて配役をするんだ。まあローマの元老議員コルヴス役のキーファー・サザーランドの極悪人ぶりはピッタリだったが。主役もワキ役も火山の爆発で死んでしまう原作のストーリーからは外れるだろうが、もともと史実なんてものもないのだから極悪人だけはシブトク生き残っていた・・なんてのが面白かったのでは。

2017年8月7日月曜日

ロバの耳通信「君の膵臓をたべたい」「君の名は。」

「君の膵臓をたべたい」(15年 住野よる 双葉社)

変わったタイトルの本がベストセラーになったという記憶しかなかったが、映画化されるということで読んでみようかと。読みたい本が増える一方なので、近年は、ベストセラーになったと聞いても、すぐにとびつくことはせず「読書メーター」(ブログ)などで星の数をチェックしてから読むかどうかを決めている。

この「君の膵臓をたべたい(キミスイ)」は、まず手っ取り早く漫画(アクションコミックス)の電子版で、チラ見したところ良さそうに思えたので早速原作(小説)の電子ブック版を入手して読み始めたら、結構はまってしまった。電子ブックで300ページ弱だし、セリフが中心に物語が展開してゆくしで、登場人物も少なくプロットも込み入っていないのでサクサクと読めた。サクサクといっても、セリフがいちいち刺さってきて、涙がでそうになったのだが。膵臓病を患っていて余命1年とされた少女(咲良さくら)と本オタクの孤独な少年(春樹)の交流。「君の名は。」(16年 邦画アニメ)のように、男女が入れ替わったりとかの奇想天外じゃないのがいい。「咲良」とその親友の「恭子」の性格描写が素敵で、著者というより男が望む理想の少女像に仕上げられており、やさしさと強さは「素子」(甲殻機動隊)、「青豆」(1Q49)にも通じている。
「キミスイ」の漫画版は絵もウマくて原作にも忠実で、漫画でもジワ~っときた。実写版も近く公開とのことでYouTubeで予告編をチェックしたが、配役がね・・たぶん、この映画は見ない。オーディオブックもチェックしたが、咲良役の声優が”飛んで”いて、ゼンゼン好みじゃないのでこれもボツ。原作、漫画、オーディオブック、アニメ動画、実写版と元は同じでも、うーん難しいものだな。「君の名は。」も原作だけにしておけばよかった。

2017年8月6日日曜日

ロバの耳通信「ラ・ラ・ランド」

「ラ・ラ・ランド」(16年 米)

ずっと見たいと思っていたミュージカル映画。予告編もwikiもチェックして、アカデミー賞の6部門賞を受けたということで大きな期待していたのに。あれれ、アカデミー賞って、こんなのでももらえるのか。いま、映画やミュージカルはよっぽど枯渇しているのだろうか。
昨年、この作品と同じデミアン・チャゼル監督の「セッション」(14年 米)もアカデミー賞3部門の受賞、評判もよくて期待して見たのだが、ゼンゼンつまらなかった。うん、映画としてよくできていたんだろうけれども、映画って、所詮「好み」に合うかどうかなのだ。この「ラ・ラ・ランド」もどうも入り込めなかった。

主演のライアン・ゴズリングは「きみによむ物語」(04年 米)以来好きな俳優なのだが、エマ・ストーンが好きじゃない。役柄の話ではなく、顔がどうしても好きになれないのだ。「アメイジング・スパイダーマン」シリーズ(12年、14年 米)「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」(14年 米)が評判が良かったのに、私が面白く感じなかったのはエマ・ストーンのせいじゃないかと思っている。エマは歌も踊りもイケるのだが・・。

映像はキレイで、ロサンジェルスの街並みの風景も楽しめる。音楽は素敵で、オリジナル・サウンドトラックのアルバムが出されていて、こちらもビルボードなどのアルバムチャートでトップ位置にいる。特に好きな曲は「City of Stars」、睡眠前の子守歌にいい。簡単な旋律ながら1-2度聞いただけでココロに染みていて、いつのまにか口ずさんでいる自分に気づく。

ロバの耳通信「八日目の蝉」

この季節、駅に続く道や公園は蝉の死骸でいっぱいになる。蹴っ飛ばすとまだ生きていて、ジジジと頼りなく鳴きながらどこかに飛んで行ったりする。長く土の中で暮らし、ほんの数日しかない声を嗄らした青春の日々を儚く思う。足許で動かなくなった蝉は、良い伴侶を得たのだろうか、それとも・・。

「八日目の蝉」(11年 角田光代 中公文庫)

すごいと思うのは角田の筆の力である。序章(0章)の一行目から、私のココロをわしづかみにした。永作博美主演の同名映画(11年 邦画)では、いまひとつ乗り切れず、そうした偏見を持って読み始めた原作だったのだが。七日で死ぬといわれている蝉が、八日を生きたとき見るものについて悲観的なことを言う主人公に、その友人が言う「ぎゅっと目を閉じてなくちゃならないほどにひどいものばかりではないかも」の言葉がワタシには重い。過去に良い思い出が少なく、これからもそう楽しいことがあるとも思えないと泣き言を言いたくなる自分に、誰かが「そうわるいことばかりじゃないと思うよ」と、暗闇の向こうに見えるかすかな光明に希望を持たせる。うん、そうでも思ってなければ、トシを重ねる意味がないよね。


映画のほうは永作に加えて、もうひとりの主人公に、当時の飛ぶ鳥落とす若手女優の井上真央を据えた。役者としての井上を好きではないから強くおもうのだが、配役はとても重要だと思う。NHKでドラマ化されているようだが、 母親役に檀れい、娘役に北乃きいだとか。二人とも好きな女優だが、この原作に似合っているとは思えない。監督、配役、脚本をそろえなければならない映画に原作のハードルは高い、高い。