「蜩の記」(10年 葉室麟 祥伝社)
10年後の切腹を命じられた侍の物語。日本文学者のロバート・キャンベルがあとがきを書いていて同じところで気持ちが通じていることを知り、なんだか嬉しかった。著者のみならず、ほかの読者との共感は読書の喜びだが、こういう時代物を読む人はだんだん少なくなるのだろうか。
為すことを終え「この世に未練はない」と言い切る武士に、僧侶が「未練がないというが、それは残されたものの心を気遣ってはいないと言っているようなものだ。この世をいとおしい、去りたくないと思って死ななければ、残されたものが気の毒だ」(拙訳)と諭す。原文では、当時の言葉で、「残された者が行き暮れよう」なのでかなりニュアンスは異なるとも思うが、出だしから最後の一文「蜩の鳴く声が空から降るように聞こえる。」まで、武士の矜持がそれを知らない自分にさえ滲み込むように伝わってきた。
同名で役所広司らが演じた映画(14年 邦画)がありテレビ放映されたものを録画しているので、原作をもう一度読み返す前に見ようと思う。原作で十分に読み切れなかった御家騒動、これがやたらと込みあっていてわかりにくかったので映画で補おうかと。こういう映画を自宅で見るには、雨の日がいい。こう猛暑が続くと、雨が恋しい。
ここまで下書きして数日置いて、別の切り口が見えてきた。矜持とは何かとまた考えてしまった。言い訳もせず泥をかぶり、不実なく期限の切腹まで過ごしたこの武士に、田舎の貧しいが平穏な暮らしなど、少しはいいこともあったのかもしれないが、自分には決してできないと。
すこし長く生きてきて気が付いたことだが、次から次へと失敗を重ね、不都合なことが続いている、いまもだ。時間を戻すことができたら、同じ選択を決してするまいとはおもうが、いかんせん手遅れだ。選べるならば、生まれることさえ躊躇するにちがいない。
夕方にベランダに立ち、涼しい風のなかに混じるどこかの夕餉の支度のにおいに、小さな幸せを感じることはあるが、貯まった不満や押し寄せる不安の大きさは法外に大きい。人生の喜びと苦しみはバランスがとれていないと感じていて、さらに悲しむべきは年を重ねるにつれ天秤の傾きが大きくなっていることに気づく。
息子が健気でよかったです。父親も、家族も健気でよかった。
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