2018年12月31日月曜日

ロバの耳通信「海辺のカフカ」

「海辺のカフカ」(05年 村上春樹 新潮文庫)

まずは「カラスと呼ばれる少年」のサブタイトルで始まる物語に、面食らい右往左往した。村上の作品では、こういうこと、脈絡の一部が切れていてそこから物語に入るようなことは何度か経験していたから、慣れてはいたつもりだったがそれでも困った。カラスに語りかけられる僕って誰?。なんとかわかったふりをしてページをすすめ、100ページを超えたくらいから物語に入り込んでいたことに気付いた。

〇〇ちゃん(カミさんの名前)”これ面白いよ、もっと早く読めばよかった”と言ったら、カミさんの答えはこうだった。”そうとばかりは言えないかもよ、イマだから面白いのかもよ”と。つまりは、ワタシがイマこの年齢になって、あるいは今までいろんな本を読んだり、いろんな経験をしたからこのタイミングで「面白く感じる事が出来たるようになった」ということらしい。何年か前でも、何年か後でもそう感じることができていなかった可能性に、なんだか納得してしまった。
「海辺のカフカ」は終戦間際に少年少女たちの記憶が突然欠落するという不思議な出来事がありひとりの少年だけはもとに戻らず、結局は生活保護を受けながら迷い猫を探す仕事をするナカタという老人になってしまう物語と、15歳になったカフカ少年が家出をして図書館に住み始めるという2つの物語からなる。
2つの物語が、どこかで交差するのではないかという期待は、曖昧な形のままだが上巻が終わりそうになるところで繋がったのでホッとした。とにかくも、西への旅を続けていたナカタはカフカ少年の住む四国の高松に着いた。

上下巻で1000ページ以上あるページはナカタとカフカ少年の旅物語。途中でこの2人の旅に参加する多くの人達、猫たちは皆ユニークで物語を盛り上げてくれて、ジャズ、クラッシック音楽からギリシャ神話やら日本の古典などのウンチクも楽しんでいるうちに、気が付いたら終わってた。もちろん、タイクツなんてしない。この小説もほかの村上作品と同じく、大事な人たちが実にあっけなく死んでしまい、残った人たちと読者がそれを恋しく思う。ケッキョク、哀しい物語なのだ。

新潮文庫は巻末に、同じ著者の本のリストと「加えて」ソノ本に関連の本のリストのページがある。曖昧な記憶だが、紹介文の付いたページがあるのは新潮文庫のほかは文春文庫くらい。文春文庫のソレは同じ著者の目録と新刊案内といったところか。
ハナシを新潮文庫に戻すと、「海辺のカフカ」の巻末にあった本のリストで、「海辺のカフカ」の中にも引用されていてワタシが触発されたたのが、「坑夫」(夏目漱石)、「オイディプス王・アンティゴネ」(ソポクレス 福田恆存訳)、「悪霊」(ドストエフスキー 江川卓訳)。こうして、読みたい本がまた増えてゆく・・。

2018年12月24日月曜日

ロバの耳通信「ヴェノム」「カメラを止めるな」

「ヴェノム」(18年 米)

MARVELコミックを元本とした映画とはあまり相性が良くない。あまりに荒唐無稽なのは好きじゃない。この「ヴェノム」もそうだ。元本が悪いのか、脚本が悪いのか、トム・ハーディーが宇宙生物のヴェノムと合体し、ヒーローになるまでのストーリーがダラダラと長すぎて退屈してしまった。ヴェノム2のための前作と割り切ればいいのだろうが、この映画には致命的に気に入らないところがいくつかある。ヒーローの恋人役ミシェル・ウィリアムズがあまりにもひどい。まあ、好き嫌いもあるふだろうがキレイではないばかりか、演技もダイコン。演技派トム・ハーディーもここではただのマッチョマン。CGばかりの格闘シーンは面白くないことをそろそろわかってくれないかな。これからDVDも出るだろうけど、ポスターに惹かれて見に行くと酷い目にあうよ。

「カメラを止めるな」(18年 邦画)

これも映画であることに間違いはないのだろうが、タダのネット動画とはいえコレを見ることに使った時間を返せ! 国内外の映画賞も獲得し、SNSの口コミが客を呼び制作費の千倍の興行収入を得ていまも上映中だと。学芸会のノリの延長のようなこんなモノが日本の文化だと紹介されていることが恥ずかしい。ヤクザ映画やエロ映画に共感を憶えたこともあったが、これはヒドイ。監督が冗談で作った学芸会風映画モドキをイイと思うようなヒトとは付き合いたくない。ああ、ここまで落ちたか日本の映画。くっそーぉ・・!


2018年12月19日水曜日

ロバの耳通信「アフター・ザ・レイン」

「アフター・ザ・レイン」(07年 米)

中国人留学生が指導教授のイジワルで将来の道を閉ざされ、大学内で銃を乱射し、自らも自殺するという実話をもとに作られた映画。主演の中国の名優リウ・イエが純朴で才能のある若き留学生の役を演じ、彼が指導教授のイヤガラセに遭い、女友達にも振られ自暴自棄になっていく様子は彼がどれも主演級で出た「中国の小さなお針子」(02年 フランス)、「山の郵便配達」(99年 中国)、「天上の恋人」(02年 中国)、「風の風景」(03年 香港、日本など)などの泣かせる名作の彼と同じく観客を映画に引き込む。この映画で中国通の優しい未亡人役(役柄ではキリスト教会のボランティア)をメリル・ストリーブが演じていて、役柄の曖昧さはともかくこの映画の唯一の救い。

テレビ放映で見た「フライト・ゲーム」(14年 米)では、このところアクション映画で大活躍のリーアム・ニーソンがこの映画でも頑張っていたが、この俳優、表情がいつも同じ。ジェット機の中が舞台では暴れるにも限界があるし、セリフも少ないからどうも、ヒーローになれない。リーアム・ニーソンは好きな俳優なのだが、シナリオの不自然さとかもあり、終わらないうちにほかの番組に切り替えてしまった。唯一、存在感のある役をやっていたが、ジュリアン・ムーア。ますます、「イヤな感じ」で、最新作「キングスマン: ゴールデン・サークル」(17年 英)でも「イヤな感じ、しかも悪役」。個人的には大嫌いな女優だが、個性は生き残りの条件か。

2018年12月16日日曜日

ロバの耳通信「ほかならぬ人へ」

「ほかならぬ人へ」(13年 祥伝社文庫)

カミさんに白石は暗いからやめたほうがいいよと言われたにもかかわらず、「草にすわる」「心に龍をちりばめて」に味をしめ、またいつか読もうと思っていた白石一文の「ほかならぬ人へ」(13年 祥伝社文庫)を。表紙のイラストが印象的で、多分、別の誰かの本に似た表紙があったせいか、既読かと勘違い。カミさんからは、また同じ本を借りたねとか言われたが、初見だった。中編2作とも浮気とか不倫とかそういう物語が繰り返されるが、一貫しているのがどういう相手かわかっても「好きでいること」をやめることができない人たちのいわば、悲しい恋愛物語。世間にはよくある話なのかもしれないが、自分がいつの間にか登場人物たちと同化していることに気づく。まあ、ハラハラドキドキはないにしてもオトナの疑似恋愛を楽しめるのだよ。

気に入った本には、残しておきたい文章が多くて、手帳とかに書き込んでいたりものだが、キリがなくなってやめてしまった。「ほかならぬ人へ」では、癌で入院している先輩を見舞う。”どんなことだって、病気になった人のことを思えば耐えられる。”とあった。健康不安のない人にはわからないだろうか。
好きな本は、気に入ったところにポストイットの付箋を付け、ときどき読み返しながら楽しむことができる。白石の本はそんな本が多い、と思う。

2018年12月12日水曜日

ロバの耳通信「ボヘミアン・ラプソディ」

「ボヘミアン・ラプソディ」(18年 英米)

QUEENのフレディ・マーキュリーの伝記映画。QUEENの名前もまあ、知っていたし10年以上前にミュージカル「ウィー・ウィル・ロックユー」も見ていたのでちょっと興味を持っていて、映画雑誌やYouTubeで予告編を見るごとに勝手に盛り上がり、封切りになったら見に行こうぜとカミさんに秋波を送っていた。段々寒くなってきて、映画館で風邪やインフル移されるのもイヤだなーとも思いダラダラ先延ばししていたら、ネット動画サイトにアップロードされているのを見つけた。
演奏以外はフレディ役のラミ・マレックのひとり芝居みたいなものだからアクの強い顔にすこし飽きたが、「頑張り」は十分伝わった。強い記憶に残っているのはフレディが実家に帰った時の母親の心配そうだけれど慈愛あふれる表情、別居した恋人とランプの点滅で心を交わすところとか。テレビCMで見たひとが何度も見ただの、大泣きしただのと言っていたのでそうかと疑っていたが、ラスト近くのライブ・エイドでの「ウィー・アー・ザ・チャンピォンズ」を聞くころには、涙出そうになった。うーん、やっぱり見に行かねば。

作品中で演奏された曲はどれも良くて、それでも一番好きな曲が「ボヘミアン・ラプソディ」。前段のハーモニー Is this the real life?<これは現実なのかが>終わって、Mama, just killed a man<ママ たった今、人を殺してきたんだ>から始まるピアノ伴奏のモノローグ曲。聞くといつも泣きそうになる。家族からサウンドトラック盤をもらったから好きなだけ聞ける。ウレシイ。

2018年12月5日水曜日

ロバの耳通信「裏切りの街」「アリーキャット」

韓国映画の暗さや血生臭さ、ハリウッド映画の度肝を抜く楽しさ、フランス映画の気怠さーのようなステレオタイプなものばかりを求めるワケではないが、映画にはやっぱりドキドキやワクワクが欲しい。普段の暮らしでは得られない事を映画に求めているのだから。日本映画はどこに向かっているのだろうかと考えこんでしまった2作。

「裏切りの街」(16年 邦画)

フリーター役の池松壮亮、主婦役の寺島しのぶがハマっていた。出会い系サイトで出会い惰性で情事を重ね、それぞれのパートナーに知られてしまうというソレダケの物語。そのパートナーたちもそれぞれに浮気をしていたというのが題名になっているオチらしいのだが、愁嘆場も殺傷事件もなにもない。池松や寺島が役とは違った俳優で、それぞれに役に合った役作りをしていたというのならスゴイと思うが、ふたりともほかの作品との役との違和感がない。つまりは、不倫以外に何も起きない「平凡」な映画なのだ。
コピーが”人は、なんとなく人を裏切る”とある。出会い系サイトとかダブル不倫とかが当代の「日常」だとしても、「なんとなく」こんなことができるのか、イマの人は。

「アリーキャット」(17年 邦画)

窪塚洋介と降谷建志(Dragon Ash)の「夢の」共演が話題になり、ストーカーからふたりに守られる母子家庭の母親役が「あの」市川由衣ということで期待をして見た。窪塚はいつもの窪塚らしいが、孤独な元ボクサーという役柄は格好付け過ぎ。「呪怨、呪怨2」(03年 邦画)で主役を張って存在感のあった市川だが、この作品では暗い印象だけをかろうじて保ったものの、場違いの表情やセリフは役作りに失敗したんじゃないのか。降谷は天然というか、いいノリでよかった。お笑いコンビ「品川庄司」の品川ヒロシのストーカー役もピッタシ。wikiを見たら、降谷も品川も俳優としてのキャリアがあるらしい。ワタシは素人だと思っていた。ほとんどストーリーがなかった「裏切りの街」とは違い、ストーキングやら臓器売買やらストーリーもしっかりしているし、登場人物の多様さ、謎の人物みたいなのがゾロゾロー、個性のあるワキ役たちのせいかメッチャ楽しめた。「アリーキャット」は裏通りなどをうろつく野良猫のこと。

2018年12月3日月曜日

ロバの耳通信「イモータル」「ケモノの城」

「イモータル」(14年 萩 耿介 中公文庫)

インドで行方不明になった兄との会話が、このところ常となっているワタシ自身とワタシ自身との内なる会話のように、自然に染み入ってきて同調、泣きそうになった。その兄を探しにインドに旅立ち、先人に託されたのが「智慧の書」。ウパニシャッドやらショーペンハウアーやらフランス革命の闘士やら、ムガル帝国の皇子やらが時空を超えた物語として登場。これらの物語を「智慧の書」がすべて繋ぐ。物語の流れは哲学の入門書にも似て、生きることや死ぬ事やはては死なない事(イモータル)を主人公の周囲にいる者たちに「言葉で」語ってくれた。「わかるだろう、言わなくても」とかいう訳知りの曖昧さで本質をごまかされるのではなく、またありもしない寓話を譬えにして勝手な解釈をさせるでもなく、ドキュメンタリーフィルムや歴史書のように丁寧に語ってくれた。

どこかでこういう体験をしていると思い出したのが、テレビゲームの「ロールプレイング」だ。いつでも、どこにでも出かけ、冒険を楽しめるのだ。この「イモータル」も歴史をもう少し学んで読めばもっと楽しめそうな気がするが、意気地のないワタシは初心者モードでステージをクリアしながらボスキャラとの対決を待つ。これまでは中公文庫は固い本が多くて敬遠していたのだが、なかなか。本作が初めてとなった萩耿介にも興味。さあ、どれから読もうか。

「ケモノの城」(14年 誉田哲也 双葉社)

中盤から、読み進めるごとに嫌悪感。こんなのあんまりだ、耐えられない、虚構とはいえ誉田はよくこんな酷い物語を考えついたなと。ストーリーを簡単に紹介すれば、絶え間ない暴力によりマインドコントロールされた女たちが、次々にヒトを殺し、死体を刻み、ドロドロになるまで煮込んで、ペットボトルに入れて運び、捨てる。読んでいて吐きそうになるグロさ。誉田のとんでもない想像力に感心するとともに、電気による拷問、果てしない虐めや風呂場で体を刻み、関節を切り離すといった血生臭さに辟易しながらも、被疑者から真実を引き出そうとする刑事の心情と最終章の真犯人捜しのミステリーに嵌まり込んで「楽しんでしまった」悪魔のような自分自身にも愕然とした。

読み終えて、この作品が「北九州連続殺人事件」という実際の事件を題材に書かれたことを知り、「ケモノ」が実際に居たことに大きな衝撃を受けた。誉田はこの作品を発表した際の対談のなかで、ケモノはヒトではないと話していたが、これこそ人間の所業なのだ。恐ろしや、恐ろしや。実際に起きたことだから、どんな作り事より、怖い。ヒトにはこんなことができるのか。そうならば、ヒトは悪魔から生まれたに違いない。