「異人たちの館」(16年 折原一 文春文庫)
著者によるあとがきでこの作品を自ら”マイベスト”だと言い、解説でも”著者畢生の傑作”だと。93年の単行本(新潮社)以降、一次(96年 新潮文庫)、二次(02年 講談社文庫)を経ての第三次文庫だと。著者の思い入れも強いようで、書評も良かったのだがワタシにはさっぱり。600ページの長編のレトリックはただ目まぐるしく落ち着かず、楽しむことができなかった。自分にはこのテのミステリーを読みこなせるほどの読解力がないのだという言い訳をするしかない。
富士の樹海に消えた、幼い頃には天才と呼ばれた作家の伝記をその母親から依頼されたゴーストライターの著作メモ。大金持ちの未亡人やら絶世の美少女やらが出てくる、江戸川乱歩風探偵ミステリー小説は、著者がこの本を自らの楽しみとして書いたと確信する。時間をかけて練り込んだレトリックは、本編と枝葉の境を曖昧にし、著者と一緒に耽溺の野を歩まなければ楽しみを共有化できないのだろう。しかし、ワタシの読書は、小説の主人公や脇役になり切って、その世界を楽しむことを旨とする。映画もそうだ。ワタシがそこで著者や脚本家や映画監督になることはない。
著者の自信作だというこの作品に、充分に懲りた。だから折原一を手に取ることはもはやない。
「獣眼」(15年 大沢在昌 徳間文庫)
折原一の「異人たちの館」ではレトリックについて行けず迷っただけだった。大沢の「獣眼」は、脇道が一切ない。主人公のボディーガード・キリになって、物語の上を走ってればいい。行きどまりもレトリックもない。
”神眼”と呼ばれる予知能力についても、大沢の作品では違和感もなく受け入れられる。それは、キリが守る少女の力であって、自分にないことで羨ましくなったりはしない。少女を守りながら、600ページを超える長い物語を走ることそのことが快感である。少女が生意気だけど可愛いということも、超能力を持っていようが、持っていまいが、守ると決めた男の矜持に共感を憶えるのだ。大沢の小説が小難しいことを言わず、楽しめるエンターテインメントだと感じさせるお気に入りの作品。
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