2020年1月28日火曜日

ロバの耳通信「傘の自由化は可能か」「ダンスホール」「身の上話」

「傘の自由化は可能か」(19年 大崎善生 角川文庫)

半分が欧州紀行記、半分が大崎の暮らしや書いた本についてのエッセイ。あちこちに書いたものを集めたものらしく、同じハナシが切り口を変えて語られる。皆、大崎が好きなたくさんの人たちについて、どんなに好きだったかが熱っぽく語られソレが、ちっともイヤじゃないのだ。大崎の作品は「赦す人:団鬼六伝」(15年 新潮文庫)、「聖(さとし)の青春」(15年 角川文庫)と読んできたが、両方とも夢中になり、大崎と同じく彼らが好きになった。この「傘の自由化は可能か」を読んで、欧州にまた出かけたくなったし、大崎の「パイロットフィッシュ」「アジアンタムブルー」「ドナウよ、静かに流れよ」を早く読みたくなった。
また、大崎に共感するところが大いにあり、彼がマイ・ロングセラーとしている「人の砂漠」「中国行きのスロウ・ボート」「夢みる頃をすぎても」ほか、また読みたい本が増えた。

図書館の新刊書コーナーにはビニールカバーを付けたばかりのピカピカの本がワタシのシャツを引っ張るし、たまに寄る近所の書店の店頭では、今週のベストセラーやら話題の本が色目を使う。タブレットは電子本でいっぱいだ。ワタシに残された時間のことを考えると、焦る。

「ダンスホール」(13年 佐藤正午 光文社文庫)

佐藤の本は何冊目だろうか「月の満ち欠け」(17年 岩波書店)とか面白い本もあったから、めぐり合いを信じ何冊か読んだがどうもいけない。文章がうまく、捻くれた作家を主人公としたイライラの募る作品は、同じ捻くれのワタシが読むと多少共感もするのだが、本にはもっとのめり込みたいのだ。うん、うんと頷きながらも、それで?といまひとつに不満が残るのだ。

「ダンスホール」の5編はどれもよくできた話なのだが、主人公の行動に全く必然性が感じられない。いい加減というか成り行きまかせというかキレが悪いのだ。ワタシはどちらかといえば理詰めで暮らしを立ててきたから、よっぱらいの論理についていけないのだ。

いい例が男女の距離の持ち方だ。好きでもキライでもない関係の持ち方は、ワタシの考え方と違う。いい格好するんじゃないよ、いい歳して、とか思いながらも結局は最後まで読まされている。佐藤正午の小説に対する不満をうまく説明できないことにも、ストレスを感じる。だから、もう佐藤正午は止めだ、やめだ。

ここまで書いたところに、カミさんが図書館にキレイな本あったよーと、廻してくれたのが「身の上話」(11年 光文社文庫)。うわっ、また佐藤正午かと思いつつも裏表紙の釣りに負け、読んでしまった。

宝くじで2億円を当てたにもかかわらず迷走から抜け出せない女の話は、佐藤正午のいつもの語り口。時世の不一致、つまりは後先の話の乱れ打ち、登場人物がキチンと呼ばれることは少なく、姓、名前、あるいはあだ名で呼ばれ、統一感がないため混乱。ディテールの暴走、つまりはタネとシカケに枝葉が付いていて、ストーリー混乱の極み。佐藤正午の作品の世間の書評はこの作品に限らず、結構いいから、佐藤文学を消化できないワタシのアタマの悪さが、面白くないと感じる理由か。

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