2025年10月28日火曜日

ロバの耳通信「アポストル 復讐の掟」「アシュラ」「6時間」

「アポストル 復讐の掟」(18年 米)

Netflixオリジナル。カルト宗教の島に誘拐された妹の救出に行った男の物語。時代や場所は曖昧だが、旧式だが銃もあるから近世か、米五大湖にあるアポストル諸島かと想像、寒そうだし。このカルト宗教がなんともすごい。ただのババアを女神にして悪いことは皆この女神のせい、リーダーたちの娘や息子がデキてしまい、見せしめに片方を殺したことからリーダーたちが反目。ババアが実は魔女で、妹を救出に行った男がババアの魔力を引き継ぐとかハチャメチャ。ストーリー展開は場当たりに思えるほどの雑さだし、エロなしグロだらけのスプラッタ劇に納得できるワケもない。うーん、脚本どうなってるのだろうと思うが、まあいいか。

配役は知らない役者ばかりだけど頑張っていて、撮影もキチンとしているから安っぽさはない。まあ、こういう映画もアリかな。切られたり抉られたり、あげくアタマにドリルで穴を当てられて悪魔を追い出す儀式とか、キモイけどドキドキしながらみられたし、妹の救出に来た男の視点を変えず、島の中あちこち冒険を楽しめたからまるでRPGゲームのようだった。

「アシュラ」(16年 韓)

R15+のノアール映画。架空の都市・アンナム市の市長、市長の子飼の刑事、検事ほか全員ワルモノ。その中で極ワルの市長ソンベ役のベテランのファン・ジョンミンがいい。優しい笑顔はすぐにブチ切れる、ステレオタイプの韓国の権力者のイメージ。

暗くて行き場のない怒り。韓国ノワール映画では、権力者はいつも極ワルに描かれる。テーブル一杯に並べられた酒肴、刑事たちの出前の食事、拳銃、鎌、金づち、ヤッパなど韓国映画の定番メニュー。メッチャ面白かった。見終わって気付いた、イカン、中毒になっている。韓国ノワール、蜜の味。

「6時間」(15年 チリ)原題 6Hours:The End

原子炉爆発までの残された時間は6時間。ラストの大爆発までは、アパートの一室内での若い男女のダラダラセリフのやりとりだけ。最後のエッチのあと女はどこかに出て行き、残された男は訪ねてきた友人とマリファナトリップ。隣の若い女が合流したところで、友人はその女に無理強い。男は友人に怒りをぶつけ、”最後に正義を行う”と意味不明なことを隣の女に告げ、その女を連れてどこかのビルの屋上に<意味不明だって、そんなの>。最後にドカーンでオシマイ。残り何時間と切られた人間が何をするかという命題にエッチだけだとぉ?66分作品だが、それでもダラダラ感いっぱい。観客を舐めてるどうしようもない映画。

2025年10月15日水曜日

ロバの耳通信「ロビン・フッド」「コップ・カー」

「ロビン・フッド」(18年 米)

「キングスマン」シリーズ(15年~ 英・米)ですっかり顔なじみになたタロン・エガートンだが、子供顔のせいかロビン・フッド役には合わないかなと思っていた。前作(ただし続きものではない)「ロビン・フッド」(10年 英・米)では、巨匠リドリー・スコットらとともに自身も制作にかかわったラッセル・クローが主演で強面のロビン・フッドのイメージがあったから。新しい「ロビン・フッド」ではレオナルド・ディカプリオ監督が今までと味付けを変え、ロビン・フッドと元妻役マリアン(アイルランド女優イヴ・ヒューソン)との愛憎を入れたり、出だしを序章の物語と語りで英国風の味付けにしたりの新しい試みを入れ、また、ロビン・フッドの戦いの場を街中のアクションにもってきたりで新鮮味のある映画となっている。馬車同志の戦闘シーンは迫力の出来で、ウィリアム・ワイラー監督。チャールトン・ヘストン主演の「ベンハー」(59年 米)を思い出した。
さらにリトル・ジョン役ジェイミー・フォックスは存在感があり、悪代官役ベン・メンデルソーンなど、特にワル役のキャスティングが良く時間を忘れるほど。終わりでボスキャラとその手下を残したのは続編への布石か。近日日本公開とのことだが、これは薦められる映画だ。

「コップ・カー」(15年 米)

10歳のふたりの悪ガキがパトカーを乗り回すというだけの映画。悪徳警官役のケビン・ベーコンが総指揮・主演。
オープニングでふたりの悪ガキが覚えたての汚い言葉を言いながら草原を歩いて行くシーンから「スタンド・バイ・ミー」(86年 米)の甘酸っぱい思い出の悪ガキ物語のつもりでみていたら、ゼンゼン違っていた。山中でパトカーを見つけ、乗り回して遊んでいたらシェリフのケビン・ベーコンに執拗に追い回される。パトカーのトランクには死体が積んであったのが、シェリフが必死で追いかけた理由。映画って、すごく面白いか、怖いか、哀しいか、なにか訴えるものがないとね。狂ったか、ケビンベーコン。

2025年9月30日火曜日

ロバの耳通信「追憶の森」「エイプリル・ソルジャーズ ナチス・北欧大侵略」

「追憶の森」(16年 米)

妻(ナオミ・ワッツ)を失ったアメリカ人(マシュー・マコノヒー)が自殺するために青木ヶ原を訪れ、そこで謎の男(渡辺謙)と出会うというただそれだけの物語。ヒネリは、アメリカ人は自らの浮気のため妻とは不仲だったのが、妻のガン治療からの回復とその後の交通事故で妻を失っていた。謎の男はどうも、森の精とか死んだ妻の霊だったかとか曖昧のまま。
映画の中の青木ヶ原は明るく、川もある。アメリカ国内のどこかの森でロケしたらしく、陰鬱で暗い溶岩だらけの本当の青木ヶ原のイメージじゃないし、アメリカ人がなんで日本まで自殺に来るんだ?ナオミ・ワッツのヒステリー女ぶりはゾッとする迫真の演技だし、アメリカ女ってのはだいたいそんなものだと想像するが、ナオミの怒った顔は怖い。マシュー・マコノヒーは有名な俳優らしいが、この映画ではダイコン。渡辺謙は好きな役者だが、存在感がない。幽霊みたいな役だから、まあ、いいのか。

題名もポスターもスピリュチアル感いっぱいだが、実際のところは男が森の中をウロウロするだけの映画。保証する、時間の損。

「エイプリル・ソルジャーズ ナチス・北欧大侵略」(15年 デンマーク)

なんだかおかしな邦題だが、原題は9.April。第二次世界大戦でドイツ軍にデンマーク国境が破られた「記念日」らしい。だいたい戦争映画といえば、行け行けドンドンの勝ち戦か哀しい負け戦のどちらかだろう。この映画、ドイツ侵攻から数日で降伏を決めたデンマークの前線にいた自転車部隊の、螳螂の戦いを描いたもの。新兵を含む若者だけの兵隊たちとそれを率いる少尉(ピルー・アスペック)の物語。これが中学生と担任の先生のイメージ。雑談しながら射撃訓練、自転車のタイヤを交換する訓練など淡々と描かれる。それを監督する将校はコーヒーやブランデーを飲みながら。おいおいこんなのありかよ。
戦争シーンはあるが、ほぼ小銃や機関銃だけで、一方的にドイツ軍の機甲部隊に追いつめられ、あっという間に降伏してしまうから邦題からドンパチを期待していると違和感を憶えてしまう。
デンマーク軍の上級将校たちは皆、無責任。ドイツ軍が来てる、どうすればーに対し、待機せよ。圧倒的な兵力にやられている、どうすればーに対し、後方で別部隊と合流せよ。兵隊はもとより、将校たちも自律的な働きができない。
ドイツ軍将校がえらく紳士的に描かれているから、この映画がデンマーク映画かと疑う。戦争なんか、結局は不条理なものだから、こういう自虐的なものもあってもいいのだろうが、それにしてもこの映画が何を観客に訴えたかったの。デンマーク軍への当てつけか。
戦場で兵隊たちに頼られながらもうろたえ、最後は降伏してしまう少尉役のピルー・アスペック、結構見る顔じゃないか。スカーレット・ヨハンソン大活躍のハリウッド版「ゴースト・イン・ザ・シェル」(バトー役17年 米)とか「オーヴァーロード」(主演 18年 米)とか、デンマークの俳優とは知らなかった。
少尉の上官のこれも頼りない将校役で出ていたラース・ミケルセンも結構有名な俳優らしい。名前に見覚えがあるからチェックしたら「ハンニバル」シリーズ(14年~ 米テレビ)でハンニバル博士を好演のデンマーク出身マッツ・ミケルセンの兄らしい。

2025年9月15日月曜日

ロバの耳通信「SPY/スパイ」「アメリカン・サイコ」

「SPY/スパイ」(15年 米)

動画サイトで俳優名で検索して見つけた映画。大好きジェイソン・ステイサム、ジュード・ロウじゃあ面白くないわけないだろうと期待。うん、めっちゃ面白かったが、普段ほとんど見ることもないコメディー。

主役が二段アゴのデブ女メリッサ・マッカーシーでゲンナリだが、アクションシーンなんかも結構丁寧な造り。「007ジェーム・スボンド」シリーズ(62年~ 英)と「ジョニー・イングリッシュ」シリーズ(11年~英)を足して割ったCIAスパイアクションモノ。「007」は、とんでもないアホ話に大スターが大真面目でアクション演技をするこそばゆさ、「ジョニー・イングリッシュ」は、桁外れのばかばかしさを感じながらもシリーズを楽しんでいたのだが、「SPY/スパイ」は、大真面目アクションをジェイソン・ステイサム、ジュード・ロウが、ばかばかしい方をデブ女がと分担、パクリなりに面白かった。
世界のほぼすべてで公開されていて、配給も20世紀フォックスと最大手なのに、日本では劇場公開されずDVDやヤミ動画で見るしかない。なぜ日本だけ劇場公開されなかったのだろう。

「アメリカン・サイコ」(00年 米)

投資会社のヤングエリート、クリスチャン・ベールは快楽殺人鬼だった。(レオナルド)ディカプリオが候補だったこの役をクリスチャン・ベールを引き継いだと。ディカプリオの幼い顔より、クリスチャン・ベールの狂気がずっと似合っている。

ふた昔の前の映画なのに、ウオール街の町並みはガラスのビルに囲まれ、ヤングエリートが集うクラブは革と葉巻の匂いのするソファーやコカインを吸うための小部屋、住まいは管理人つきで夜景がきれいな高層マンションのペントハウス、窓には天体望遠鏡、クローゼットにはダークスーツが並ぶ。憧れを通り越した夢のエグゼプティブの暮らしは、古さを微塵も感じさせない。
高級レストランで意味不明の料理を食し、パーティーではよく知らない友人たちや群がる女たちと意味のない馬鹿笑い。金持ちの暮らしとはこういうものなのか。空しいと感じさせても、憧れとのバランスはとれない。
同僚を斧で殺し、娼婦をチェーンソーで追いかけまわし、顧問弁護士に殺人を告げても信じてくれない。だから、空しい暮らしは変わらない。

楽しくも面白くもないが、忘れられないいい映画だった。同名の原作本(95年 角川文庫)があり、ソッチのほうがずっと過激で重苦しいらしい。また、読みたい本が増えた。

2025年8月29日金曜日

ロバの耳通信「下町ロケット」「花の下にて春死なむ」

「下町ロケット」(13年 池井戸潤 小学館文庫)

ちょっと、考えあぐねているのが池井戸潤。この直木賞受賞作の「下町ロケット」も、予想通り面白かった。読み始めたら、途中で止めたくないほど、なのだが、何冊か読んできて、池井戸の勝ちパターンというか、読者を引き込む手口に飽きてきたらしい。カミさん曰く、”作ってる”から好きじゃない、と。
勧善懲悪、ハッピーエンドはキライじゃないが、ずっとこれだと飽きる。文章もうまいし、ストーリーを組み立てる素材というか、今回の「下町ロケット」でいえば、大企業・町工場の描き方、水素エンジンのバルブシステム、銀行と企業の駆け引きなどのディテールもおろそかにしていないから臨場感に引き込まれてしまうが。解説を読むと、江戸川乱歩賞受賞の「果つる底なき」、大企業の横暴を描いたという「空飛ぶタイヤ」、吉川英治新人賞受賞の「鉄の骨」などなど、紹介されているどの作品にも期待が膨らむ。飽きた、と期待のせめぎあい。読みたい作家はまだまだいるからね。

「花の下にて春死なむ」(01年 北森鴻 講談社文庫)

裏表紙の”日本推理作家協会賞”の釣りに惹かれ読み始めた連作6編。著者の作となる俳句やら、気の利いたビアバーのマスターとの洒落た会話など、著者自身が楽しみながら書いたに違いないミステリーは、ひとひねりもふたひねりもしてあって謎解き好きには堪えられないかも。
初めての作家だが、この作品は、ただ、好みに合わない、訳知りマスターが凝った料理の能書きを垂れながら謎解きをして見せるなんてのは。で、巻頭を読んで、中盤を拾い読みして、ヨイショだらけの郷原宏の解説ー実は、この郷原宏が好きじゃないから、坊主憎けりゃ・・になってるかも、と北森には申し訳ない気もするーで勧められた巻末短編も読みだしたが、途中でコンジョウが尽きた。

2025年8月20日水曜日

ロバの耳通信「ミッドナイト・バス」「虚の王」

「ミッドナイト・バス」(16年 伊吹有喜 文春文庫)

深夜バスの運転手として働く男には都会の暮らしに疲れ実家に帰ってきた息子とコスプレアイドルに夢中の娘、姑との諍いのため別れた妻がいて、前妻には新しい家庭があり、男も新しい伴侶を持つことを考えている。騙しも、殺しもない。普段ミステリー小説やノワール映画に明け暮れているから、こういう小説はちょっと退屈なのかなと不安もあったが、父と息子、父と娘、前妻と子どもたちの「どこにでもあるような話」ではあるけれど、ときどきウルウルしながら500ページを一気読み。カミさんは、元妻とまた一緒になるというラストが良かったと。ワタシは、男は前妻や小料理屋の女将のどちらとも撚りを戻さないというラストが良いと思ったのだが、伊吹は別のラストを準備していた。


「ミッドナイト・バス」(18年 邦画)


主演のバス運転手役原田泰造、その妻役山本未來も、音楽(川井郁子)も良かったが、とても重要な役柄だと思える小料理屋の女将役の小西真奈美がゼンゼンそれらしくなく、つまらなかった。製作スタッフもよく工夫したなと感心したのが、娘とその相手の両親を入れての会食シーン。原作にあった突然3人が玄関先に立つところで、このマザコンボーイフレンドと両親の態度に辟易感を感じているのに、映画では会食場所に向かうエレベータが騒々しい中国人たちに囲まれて辟易するシーン、そのあとのレストランでも騒々しい中国人に囲まれて、大事な食事会がワヤになってしまうところ。マザコンの母への憎々しさ倍増。
製作が新潟日報社で、公開も新潟千行ということでローカル色が強かったが、カメラワークが自然で信濃川と万代橋の風景も楽しめた。とはいえ、映画が原作を超えることのハードルの高さを感じた。

「虚の王」(03年 馳星周 光文社文庫)

馳のノワール小説は好きでずっと読んできた。この「虚(うつろ)の王」は、その中でも最も失望した一冊になってしまった。魅力的な4人のキャラでもっともっとノアールにしてほしかった。どうせ最後に殺してしまうんなら主人公を隆弘じゃなく、「最初から」極悪英司にすればよかったのにと残念でならない。美少女希生(のぞみ)にも、女教師潤子にももっと汚れて欲しかった。「不夜城」「漂流街」「夜光虫」(97年~99年)の、ページをめくるのが惜しくなるような興奮がなつかしく、恋しい。
600ページも読み進めてきて、本当に面白かったのがラストページだけなんて酷いよ。いくらワタシが速読だったって、600ページを読み終えるのに何日使ったとおもっているんだよ。

2025年8月10日日曜日

ロバの耳通信「フォース・プラネット」「ファイティング・ダディ 怒りの除雪車」

「フォース・プラネット」(16年 米)原題 Approaching the Unknown

火星探検の第1号として派遣された船長(マーク・ストロング)は、土から水を作り出す”水炉”の発明者で絶対の自信を持っていた。ところが、火星への長旅の間、水炉の調整時にバルブの接続を間違えるという”へま”をして水をつくることができなくなる。火星に行っても、水が作れなければなにもできない。地球に戻るには離れすぎ、しかも過大な期待をされて送り込まれた”専門家”の矜持もある。
ラストシーンは、火星に降り立ち生物はいないとモノローグするが、これが実際の出来事か、夢まぼろしだったのか。

「キングスマン」シリーズ(14年~ 英)で、スパイの先生マリーン役でいい味を出していたマーク・ストロングもこの「フォース・プラネット」では、自称専門家の鼻っ柱ばかり強い宇宙船の船長。思いがけない水炉のトラブルで、自分を失っておかしくなってゆく様がなんとも。

それにしても一年ちかく、ひとり宇宙船の中で過ごすってのはどうだろう。たとえは悪いが、ネット喫茶の個室で一年暮らすようなものか、それもいいんじゃないか、ワガママ放題、三食付きネット環境付き、うーん。一週間くらいならいいか、と楽しい妄想。

「ファイティング・ダディ 怒りの除雪車」(14年 ノルウェー・スウェーデン・デンマーク)

何と、安易な邦題だ。原題kraftidiotenは失踪、みたいな意味らしい。
雪上車の運転手(ステラン・スカルスガルド)の息子の大学生の死体が見つかり、麻薬の過剰摂取という警察の説明に納得せず真相を突き止めるべく、息子の友人関係から調査を進める。麻薬カルテルの末端から一人づつ殺してゆき、地元ラスボス”伯爵”までたどりつく。伯爵は、部下たちの失踪を、セルビア人ギャングの裏切りと勘違いし、地元ギャングとセルビア人ギャングの抗争に発展する。
面白いのが、舞台がノルウェーの街なのに、スウェーデン人、アジア人、セルビア人など多様の人々が登場するし、運転手もその兄の元ギャングもギャングのボスの伯爵も、みんなうるさい妻たちに悩まされていること。福祉が行き届いた北欧の特徴なのだろうか。

先週、映画にでもと放映プログラムをチェックしていたら、この映画のリメーク版「スノー・ロワイヤル」リーアム・ニーソンの主演で放映されていると。監督も本作と同じくハンス・ペテル・モランドらしい。リーアム・ニーソンって、どんな映画でも同じ演技。まあ、この役には合ってるとは思うけれど、映画館に行ってまでもという気はしないかなー。「スノー・ロワイヤル」って邦題もなんだかね。

2025年7月30日水曜日

ロバの耳通信「夜行観覧車」「かずら野」

「夜行観覧車」(13年 湊かなえ 双葉文庫)

湊かなえの文章は読みやすい。普段着の言葉で語られるのはどこにでもありそうな普通の不幸な家庭。「夜行観覧車」は3つの家庭の内情が描かれている。視点を変えるごとに、自分のアタマが混乱するのがわかる。しかも、ほかの湊の小説と異なるのは、「母の思い」の重み。出てくるのは独りよがりの母親ばかり。子供たちの非行が、自らの不安の子供たちへの投射だと気付けよ。ハッピーエンドの終わり方が気に入らない。

いままで読んだ湊の作品では、不幸な子供たちの「思い」がいっぱい描かれていて、それが湊の小説の魅力でもあったと思う。きれいごとの表現を使えば傷つき易かったり、狡かったり、ワガママであったり、純粋であったりの部分を書き込んでいた。
それが、この小説の3つの家族の視点はすべて母親の女の冷めた視点だと感じてしまったのだ、ワタシは。つまりは、子供たちへの本質的な愛の欠落を感じてしまったのだ。無意識という悪意。

湊のデビュー作「告白」(08年)はまず映画、次に小説だったし、視点が変わることも少なかったし、スジで混乱することもなかったから、わがまま母親が暴走したり反省したりのワガママ物語の「夜行観覧車」ほどの疲れはなかった。

テレビドラマ化されているというから、そっちを見て、また本に戻ってこよう。テレビドラマでは母はどう描かれているだろうか。

「かずら野」(04年 乙川優三郎 幻冬舎文庫)

乙川の作品をいくつか読んできた。矜持のための今一歩を踏み出せない武士の物語だったり、思いを伝えられない切ない物語が多かったと思う。この「かずら野」は、物言うこともできず、男に翻弄され続けた女の物語である。
足軽の次女に生まれ、糸師(生糸生産者)の家に売られた女が、主人殺しの嫌疑をかけられたまま糸師の若旦那と落ちてゆく。丁寧に綴られるのは、糸師の元での生糸を紡ぎ、端糸を染めて縫物にし、塩を作り、鰯の干物を作るといった、当時の市井の人の暮らし。住処も松代、深川、行徳と彷徨う。女が、男に愛想をつかし、独り立ちを決心したその日に・・。
書評では、乙川らしからぬとか、チャレンジ失敗作とかの酷評が多かったが、ワタシには「流されてゆく女」の心情を男の乙川がここまで書けるのかとの驚きと感動を覚えた。いやいや、女の心情なんてのは乙川もワタシも、本当のところがわかっていないのに、勝手に想像しているだけかもしれないのだが。

2025年7月20日日曜日

ロバの耳通信「中国毒」「日本国債」

「中国毒」(14年 柴田哲孝 光文社文庫)

書評家による解説に”読者の日常の安寧を爆破する一冊””本を閉じてからの毎日を不安の中で過ごさねばならぬはず”とあった。ワタシも読み終わって、そんな恐ろしさを感じた。
異常に患者が増加したクロイツフェルト・ヤコブ病を調べてゆくうちに、原因と思われる「ある疾病」に行き着く。潜伏期間が数年、伝染しない代わりに発病は突然、しかも治療法なし。あまりに恐ろしくて、詳しくは書けないが、強い不安としてワタシの記憶に焼き付いてしまった。もう、ダメだ。忘れられない小説になった。


ノンフィクション作家である柴田が、自らフィクションだと主張する小説の中で、殺し屋やら腕利きジャーナリストといった虚構の物語で味付けをしながら、「事実らしきこと」を読者に丁寧に説明しながらストーリーに乗せてくれた。読者は500ページの終点で、積み上げられた「事実らしきこと」に、途方もない不安以外に感じることができなくなっていることに気付くのだ。

怖かったといえば「残穢」(ざんえ)(15年 小野不由美 新潮社文庫)も怖かったが、「中国毒」の怖さは、もっと、もっと「ありそう」な怖さだ。柴田の説得力に脱帽。「残穢」は、読まなくても死にはしないが、この「中国毒」は、読まなければならない作品だ。

「日本国債」(03年 幸田真音 講談社文庫)

経済小説のつもりで借りてきたのに読み進めるうちに特捜刑事と一緒の気持ちになって、犯人捜しにハマってしまった。なにより、この幸田真音(こうだまいん)という作家、初めて。読みなれたいつもの作家を追いかけているうち、とんでもない傑作を見落としていたのかと、激しく後悔。
国債の仕組みと官僚の関わり、証券ディーラーの債券市場での戦いと証券ウーマンの成長、特捜刑事の活躍など上下巻の長編にギッシリと話題や事件が詰め込まれているのだが、日本国債の課題という骨太のストーリーは、殺人未遂やらジンワリくる大人の恋を散りばめられても気持ちが散逸することを許さない。取引中のトレーダーのチャットなど、到底ありえないインサイダーまがいの話もでてくるが、多くはこの分野ではシロートであろう読者への著者による解説サービスだと思えばウレシイ。おかげで臨場感もたっぷり味わえた。
幸田真音か、まいったな。また読みたい本が増えた。

2025年7月10日木曜日

ロバの耳通信「ケープタウン」「TAKING CHACE/戦場のおくりびと」「ディファイアンス」

「ケープタウン」(13年 仏)

ケープタウンで殺人の捜査をする刑事フォレスト・ウィテカーとオーランド・ブルームが同僚や母を殺されながら麻薬カルテルと闘う。その麻薬は黒人撲滅のために開発されたもので、摂取により自殺や殺人を誘発するという。オーランド・ブルームはアル中で、別れた妻との間に年頃の息子がいて金が要る、フォレスト・ウィテカーは現地の下層階級ズールー族の出身という設定、幼い頃に犬をけしかけらたため男性器を失っていて、それでも売春婦のところへ通う。誰にでもある、心の闇。埃まみれのバラック、灯りは店の前だけ、角を曲がると暗闇、どこもそうだ。画面を見ていて、次に起きる怖いことが、もっと怖く、血生臭い。ナタやナイフも怖いが、表情も変えずそれを使う途方もないワルたちが心底ゾッとする。ケープタウンの闇をこうあからさまに描いていいのか。映画の底辺に、現地人の貧しさを同情しながら、未開人を馬鹿にし、そのくせ心底怖がっている自分と同じたくさんの観客の眼を感じる。少なくとも、二度見る映画ではない。

「TAKING CHACE/戦場のおくりびと」(09年 米)

イラク戦争のさなか、デスクワークに逃げ込んだという意識から罪悪感に苦しめられていたアメリカ海兵隊中佐(ケビン・ベーコン)が、亡くなった若い兵士の遺体を家族の元に送り届ける役を自ら引き受ける。戦死した兵士を家族の元に返す時は、必ず随行者が必要という決まりがあるらしい。

遺体が集められた軍の基地での納棺から家族のいる町の葬儀社までの道のりでは、随行者も含め航空会社や霊柩車での移動時に敬意を持って対応される。その厳格で決まりだらけの道行の一切を終え、自宅に戻った中佐が家族と抱き合うシーンが印象的だ。戦闘シーンも死亡シーンもないが、これは反戦映画であり、同時に国威高揚映画だ。ケビン・ベーコンが名優だと改めて、知る。

アメリカ国内で飛行機に乗ると、軍服を着た兵隊はエコノミークラスでもファーストクラスより優先搭乗案内される。それくらい国のために戦う兵士たちは、アメリカでは優遇される。奨学金制度や就業支援制度など多数の優遇制度がある。実態との乖離も指摘されてはいるようだが、どこかの国で、今はほとんど戦死者はいないものの、災害支援での事故死や過労死の話も聞く。国は彼らにどれくらい報いているだろうか。

前に見た映画で、兵士の死亡連絡は正装した軍人が家族の家を訪れるという決まりがあることを知った。第二次世界大戦中に留守家族が家の前に黒い車が止まり、中から正装した軍人(通常2名)が玄関口に歩いてくるのを見て、母親が息子の戦死を知るというシーンを見て、電報一本で戦死公報が届けられたどこかの国とはえらい違うなと感じたものだった。

「ディファイアンス」(08年 米)原題 Defiance

第二次世界大戦時のベラルーシのビエルスキ兄弟によるユダヤ人救出劇を描いている。原作は「ディファイアンス ヒトラーと闘った3兄弟」(09年 ネハマ・テク 武田ランダムハウスジャパン)。主役が英007俳優ダニエル・クレイグだし、よくあるアメリカ軍の大活躍でもないから、ハリウッド作品なのにとちょっと不思議な感じ。ナチスに蹂躙されながらも、ユダヤ人の見識の高さというかワガママを描いているから、誰かがこの映画で何かを訴えたかったのか、とか政治的背景も考えてみるのだが、思いつかない。

2025年6月29日日曜日

ロバの耳通信「静人日記 悼む人II」「原発ホワイトアウト」

「静人日記 悼む人II」(12年 天童荒太 文春文庫)

「悼(いた)む人」に続編があるとは知らなかった。読むと辛い思いのする本なのに、読み進めたい、感情の高ぶりに身を任せ、一緒に喜びたい、哀しみたい、泣きたい、そんな本がある。今まで読んだ「悼む人」(11年 文春文庫)、「永遠の仔」(04年 幻冬舎文庫)、「ムーンナイト・ダイバー」(16年 文芸春秋社)、「家族狩り」(07年 新潮社)など天童荒太の本はみなそうだった。高良健吾が静人役をやった「悼む人」(15年 邦画)も良い作品。


見ず知らずの人の死を悼むという、本能的なことに多くの人が違和感を感じることについて。

昔、ある葬式の席で私の親しい友人が、亡くなった人について、いなくなって悲しい、いい思い出しか残っていないと悲しみ悔やんでいた。とどめなく涙を流す私の友人を見ていた知人から「宗教の人か」と聞かれた。亡くなった人のことを思い出し悼んでいただけなのに、宗教って、そういうふうに使われるのかと不快な気持ちになった。

「悼む人」の本編やこの続編でも、主人公静人の亡くなった他人を悼むという行為そのものがまるで悪いことをしているような扱いをされ、宗教かと問いただされるところが出てくる。私自身、犯罪現場などに設置された献花台で、被害者とは何の関係もないような多くの人が、遠いところから花を手向けるためだけに訪れるところをテレビで見ていて、見知らぬ人なのにと違和感を感じていたのだが、この「悼む人」など天童の著作を読むようになってから、亡くなった人を悼むという行為は自己満足だけのためでもなく、自然の欲求によるものだと思うようになってきた。「宗教の人」にそういう人が多いのならば、そういう宗教を持つことができたこと、それが自然なことなのだと思う。

無差別殺人、犯罪や他人の不注意とか不条理なことで亡くなられた人のことのことを思うと、神も仏もあるものかとも思う。私は間違っているのだろうか。

「原発ホワイトアウト」(15年 若杉冽 講談社文庫)

著者は現役官僚で「告発本」だと。霞が関の裏側や原発利権に群がる人々を上から目線で、腹立ちまぎれに言いたい放題。
なんだろう、この不快感。東大法学部卒で国家公務員I種合格だという著者の看板が本当だとして、訳知り顔でそちらの身内を揶揄しつつ聞きかじりの裏情報を教えてくれても、こちとら、小市民だからそういうハナシは面白くもなんでもない。唯一、興味深かったのは最終章の電源テロで冷却用電源を失った原発がメルトダウンしてしまうこと。
実際ににこういうことが起きたら、ディーゼル発電機が低温で稼働しないということを小説のなかでオレが指摘していたじゃないかとか、またまた上から目線の訳知り顔で偉そうにおっしゃるのだろう、この作家。とにかく、不快感をガマンしてまで読む作家ではない。

2025年6月20日金曜日

ロバの耳通信「クリーンスキン 許されざる敵」「王様のためのホログラム」

「クリーンスキン 許されざる敵」(12年 英)

ショーン・ビーンがイスラムのテロリストを追う情報部員、「あのシャーロット・ランプリングがその上役という設定。テロリストを追い詰めたら、上役がからんでいた証拠が出てきて、シャーロットもショーンに殺された。政治家がテロリストをダシにして、現政権からの脱却を図ろうとするなんてのは、EUから出るの、でないのと混乱が続く英の政権争いでは案外「想定内」なのかも。
若いイスラム教の青年、原題のClean Skin「前科がない」という意味で、この普通の青年がテロリストにされてゆくところや、希望のない暮らしのなかで陰のある青年に惹かれる英国の若い女性の描き方など、多人種国家ゆえの混乱の英国の今につながっている気がする。

ショーン・ビーンがほんのこの間まで夢中になっていた「ゲーム・オブ・スローンズ」(13年~ 米テレビドラマ)の「北の王」エダード・スタークをやっていて、その印象が強くて、ショーン、ここではテロリストと闘ってるのかとしばしアタマが混乱しつつも、しっかりミステリーを楽しめた。

「王様のためのホログラム」(16年 米)

元自動車会社の重役(トム・ハンクス)、業績悪化で退職。家も車も妻も失い、ひとり娘の養育費を稼ぐために3D会議システムの販売にサウジアラビアに。売り込み先のサウジの王様にはなかなか会えず、本国の3Dシステム会社から毎日、やいのやいのとセッツキの電話。つもり積もったストレスにまいってしまい、背中にできた脂肪の塊は悪化するわ、呼吸困難になるわの時に助けてくれたのが、離婚調停中のサウジ女医。3D会議システムの売り込みには失敗するも、女医と懇ろになりサウジに職を得て女医と新生活ーと、漫画のようなオカシな「大人の夢物語」。映画的には、サウジの中年女医が、若くも、キレイでもなんともなく、そうハッピーには思えないが、まあ、いいかと。
トム・ハンクスの「ビッグ」(88年)、「ジョー、満月の島へ行く」(90年)、「フォレスト・ガンプ/一期一会」(94年)、「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」(94年)など、面白みのある役柄も合うから、結構見ているし、シリアスなものも含めて、外れがほとんどないから、こうやって wikiで作品を掘り出しては、見ている。

サウジとの仕事をしたことがないが、エジプト出張では王様のようなエライひと、ただしこの国にはそんなのが何人もいて、まあ旧家の名士くらいの意味らしいが、そういう人たちと禅問答のような話をした憶えもあるから、トム・ハンクスの持って行き場のない焦燥感のような気持ちがわからないでもなかった。ちなみにワタシの商談も失敗。砂と不味いメシと暑いだけのエジプトは一度で懲りたが、「王様のためのホログラム」で見たまっすぐ伸びたハイウェイと宮殿のようなホテルは憧れる。サウジは王様とかのツテがあればぜひ行ってみたいともおもったりするのだが、そんなツテなどあるわけもない。

2025年6月10日火曜日

ロバの耳通信「名もなき塀の中の王」「処刑島」

「名もなき塀の中の王」(13年 英)

邦題を見て「蠅の王」(90年 米)とか「王の男」(05年 韓国)とかのナントカの王とか王のナントカとかという映画で面白い作品と出会っていたのでその類かなと勝手に想像していたらえらく違っていた。
原題のStarred upとは刑務所用語で、少年刑務所から途中で成人の刑務所に昇格したという意味らしい。で、この「名もなき塀の中の王」は青年が刑務所で入所検査を受けるところから始まる。英国の刑務所はいままでに見たどこの刑務所とも違っていた。最悪だと感じた「ミッドナイト・エクスプレス」(78年 米)のトルコの刑務所は別格にしても、なんだこの英国の刑務所の自由さは。タバコは自由だし、ほかの独房への訪問も。部屋にはラジカセどころかジュース、お菓子が積んであるし。これ見たら、ほかの国の囚人が憧れるんじゃないかな、実際のところはわからないのだが。
ともかくこの英国の刑務所に少年刑務所から移された青年が、同じ刑務所で終身刑として収容されていた父親と会い、最後は絆を取り戻すーとまあ、最後のオチはあるにしても、この青年が自分で起こす暴力、リンチのシーンの連続が酷い。邦題の「王」が、暴力に走る青年のことか、刑務所内で人を殺したために終身服役者として一目置かれていた父親か、刑務所のボスのことか、囚人を更生させようと無給で働くコンサルタントのことか、はたまた刑務所を仕切る所長のことか、誰を指すのか、或いはそのすべてを指すのかはわからない。「名もなき塀の中の王」残酷だが救いもある、見るべき映画のひとつだろう。

刑務所を題材にした映画は名作が多い。「ショーシャンクの空に」(94年 米)、「グリーンマイル」(00年)、「アルカトラズからの脱出」(79年)、「告発」(95年)、「ライフ・オブ・デビッド・ゲイル」(03年)、まあ、キリがないからこれくらいにするが、刑務所というところは人間の本性が出るところだ映画の題材にいいのだろうか。
邦画ではテレビドラマだが「破獄」(85年 NHK)の緒方拳が良かった。テレビ東京によるリメーク版は山田孝之が主人公を演じていたが迫力不足。看守部長をビートたけしを配するなどワキに芸達者がいたからなんとか見られたが、前作にも、もちろん原作(「破獄」吉村昭)にも及ばず。

「処刑島」(06年 英)wilderness

少年刑務所のワルたちを集め軍が訓練に使っていた島に送り再訓練をさせる。その少年刑務所でワルたちにイジメられ自殺した少年の父親(実は特殊部隊出身)が島に乗り込み復讐するーという、安易このうえもない設定。さらに、同じタイミングで少女感化院の札付もこの島で矯正訓練を受けているという、どうしようもない無理無理設定。
ワルや札付が次々に殺され、犯人のはずの元特殊部隊の男も殺され、じゃあ、誰が真犯人かと、謎解き風にもなっているが、そもそものストーリーに意味付けがされていないから考えるのもばかばかしくなるB級映画。
少年院のワルたちが、いかにもワルの顔で、どこかで見たような顔。こういう顔と街で会いたくないなーと、そんなことを考えていた。

2025年5月30日金曜日

ロバの耳通信「来る」「ヴァイブレータ」

「来る」(18年 邦画)

キャスティングを見て、かなり期待していた。原作「ぼぎわんが、来る」(澤村伊智 角川ホラー文庫) が、第22回日本ホラー小説大賞を受賞、マンガもチラ見だが結構怖そうだったし。
能天気男役で子育てブログを書くことに生きがいを感じている妻夫木聡も、育児ノイローゼで段々狂って行く母親役の黒木華も怖かったが、もっと怖いはずの「アレ」とか「それ」が、なかなか来ない。ボスキャラがなかなか出てこないのにシビレを切らしそうになったら、大巫女役松たか子が日本中の霊媒師(代表柴田理恵)やら韓国の祈祷師まで呼んでお祓いをしたから、おお最後に来るかと期待していたのに、なんだこりゃの感。血反吐のゲロシーンばかりのCGも飽きるばかり。大巫女の妹でキャバ嬢役の小松菜奈がメッチャ良かった、うん個人的に気に入ったというだけれど。ウラをかえせば、ほかに大した見るところもなかったということか。


「ヴァイブレータ」(03年 邦画)

古い映画なのに、昨日封切だったよと言われてもゼンゼン違和感なし。R15だけど、ゼンゼンいやらしくなくて、寺島しのぶが「いつもの」いい感じ。少し前に息子とテレビに出ていたけど、この映画の頃とあんまり変わらない。年をとらないのか、早くから老けていたのか。

疲れてしまったルポライターの女と長距離トラックの運転手。ロードムービーなんて言葉があるかどうか、ともかくふたりはハレでも雨でもないくらいの距離感を持ち、旅を続ける。見栄とか気取りとか、そんなヨソユキの言葉じゃない会話が、それでも出会いから少しずつ距離を縮めてゆくに従い微妙に変化してゆくのが分かり、いつのまにかどちらにも共感している自分に気付いた。

どこかの薄暗い大衆食堂で、向き合ってそうウマそうでもなく、フツーにメシを食ってる彼らがうらやましい。ワタシには持病があり先行きの不安もあるが、まあ平凡な暮らしができている。だからそう感じるのかもしれないが、こういう旅暮らしもちょっと憧れてしまう。まあ、3日くらいで飽きてしまうかな、根性ないし。題のバイブレータの意味はよく分からない。ググったら、トラックの振動とかココロが揺れるとか、まあ、いろいろ書いてあったけど、題なんてどうでもいいかと。
映画評は良くなかったが、好きだね、この映画。


2025年5月20日火曜日

ロバの耳通信「最愛の大地」「タイガーランド」

「最愛の大地」(11年 米)原題 In the Land of Blood and Honey

アンジェリーナ・ジョリーの初監督・脚本ということで話題になった”恋愛映画”。交際していたセルビア警察官とムスリムの女画家がボスニア・ヘルツェゴビナ紛争でセルビア将校とムスリム勢力という敵味方の関係に。見終わって、これアノ映画と同じスジじゃないかと。ナチ将校ダーク・ボガードとユダヤ女シャーロット・ランブリングの「愛の嵐」(74年 イタリア)Il Portiere di notte だ。倒錯の愛はいつでも後をひく。

結局「最愛の大地」も、盗作騒ぎやら人権問題で映画界を騒がせ、アンジェリーナの名前だけで鳴り物入りで公開されたもののヒットしなかったのは暗すぎる話だったせいか。アンジェリーナは嫌いだが、この映画、個人的にはカメラワークも音楽も良かったし、なにより何を考えているのかわからないムスリムの女画家を演じた女優に、「愛の嵐」のユダヤ女シャーロット・ランブリングと似た不可解な女の何かを感じ、忘れられない映画になった。

「タイガーランド」(00年 米)

タイガーランドはベトナム戦争時代の米軍の訓練施設。新兵の訓練施設の最終ステージにあたり、ベトナムのジャングルを再現していて米兵とベトコンに分かれた模擬戦をやる。それまでの訓練で疲労や不平、不満が溜まっているからつい本気になってしまう。
コリン・ファレルが飄々とした新兵になってまとめ役に。ほぼ無名の役者ばかりだから、ほとんどこれはコリン・ファレルのための映画。あんまり変わってないな。
実際の戦闘シーンはないが、お決まりの古参軍曹による新兵のシゴキやら新兵同志のイジメやらが延々。まごうことなき反戦映画。厭戦といってもいいか。

60年代の終わり。私はノンポリだったから、学内を練り歩くベトナム反戦のデモにも集会にも参加せず。ずっと後になって、それらに参加しなかったことで失ったもののことを考えた。停学になることも、怪我をすることもなかった代わり、何か大きなものを失ったような気がしたが、いまもそれが何かわからない。相変わらず、今もノンポリのままだ。

2025年5月10日土曜日

ロバの耳通信「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」「ブレイン・ゲーム」

「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」(17年 米)原題 The Post

監督がスティーブン・スピルバーグ、主演がメリル・ストリーブ、トム・ハンクスと揃えば面白さを保証されたもの、にも拘わらずこの映画、初見。ひとこと感想、いやー、面白かった。
ベトナム戦争の調査レポート「ペンタゴン・ペーパーズ」をマクナマラ司法長官に握りつぶされた軍事アナリストがレポートをニューヨークタイムスに持ち込み、発表したニューヨーク・タイムズに司法の手が伸びる。ニューヨーク・タイムズに遅れをとったワシントン・ポストの編集長(トム・ハンクス)はアナリストから同じレポートを入手し、訴追覚悟で大々的に暴露した。メリル・ストリーブはワシントン・ポストの社主の役。親から引き継いだ会社をつぶすかどうかの瀬戸際に立たされるも、編集長支持の結論を出す。
日本の司法制度との違いをまざまざと感じるのが、記事掲載日に司法省より編集長への記事差し止めの電話、翌々日には最高裁判所による公聴会と決定とアクションが早い。しかも、レポートを最高機密文書として隠そうとする政府に対し、報道の自由を理由に記事の掲載を最高裁が適法と裁定するなど、ちょっと格好良すぎのウソ臭さもあるが、経緯はおおむね事実にのっとっているだろうから、映画の説得力もある。まあ、この映画が70年代か80年代なら大いに評価されるだろうが、当事者たちのほとんどが死んだり、引退している17年の公開じゃあ、ただのサクセス・ストーリーかな。
ワシントン・ポストは13年にAmazon創始者のジェフ・ベゾスに売却され、”スローガンを「Democracy Dies in Darkness(暗闇の中では民主主義は死んでしまう)」とすることを発表”(wiki)したりしているから、案外この映画、ワシントン・ポストのキャンペーン映画かなと。まあ、面白かったから文句はないけれど、時期的にはちょっと後味が・・。

「ブレイン・ゲーム」(15年 米)原題 Solace

アンソニー・ホプキンスのファンで、だいたいは同じ映画を2、3回は見ている。サンソニー・ホプキンス主演の映画のなかでも、この「ブレイン・ゲーム」は、味わい深い優れた作品だと思う。脚本も、音楽もいい。特に気に入っているのはフラッシュバックのシーン。ホプキンスがFBIに委託された、預言者の役だから、未来に起きることをフラッシュバックで見せるのだが、数秒の映像が実に迫力があり、何度みてもドキッとするほど。あと、FBI女性捜査官役のオーストラリア女優のアビー・コーニッシュがいい。ブロンドの美しい髪を束ねた制服姿は見てるだけで萌える。
この映画、アンソニー・ホプキンスを雇うFBI捜査官の役で準主役ジェフリー・ディーン・モーガンが末期がんの捜査員という難しい役で出ていていい味をだしているのだが、一年ほど前まで夢中になってみていた「ウォーキング・デッド」(10年~ 米テレビドラマ)では、極悪の親玉の役だったから、その役柄の落差に頭が混乱。ポスターではホプキンスと並んで、コリン・ファレルが出張っているが、連続殺人犯という重要な役柄ながら、後半にちょろっと、いつものトボケ顔。彼はミスキャストだと思うよ。
原題のSolace「癒し」の意。ここで明かさなくても、映画を見れば納得。

2025年4月30日水曜日

ロバの耳通信「アメリカン・ウオー」「アイアンクラッド」

「アメリカン・ウオー」(原題 Memorial Day12年 米)

日本国内では公開されていないらしい。祖父が孫に大戦中の辛かった思い出を語り、その孫はいまイラク戦争で戦っている。ポスターと中身はえらい違いで、ハデなドンパチものではない。この映画で見せるのは、戦争の悲惨さだけでなく、アメリカ中西部の豊かな自然、頑固ジジイと孫たちの交流、ジジイの妻の暖かな眼差し、父と子のギクシャクした親子関係、戦友たちの死や彼らとの友情、とにかく全部が「アメリカ」。有名な俳優はジジイ役のジェームズ・クロムウェルだけだけど、主人公(孫)役も子役(孫)もジジイの妻も全員が無名ながらスゴイ。監督も撮影も音楽までも無名の人々。カメラワークや音楽はちょっとないくらい素晴らしい。クラス分けではB級に入るのだろうが、丁寧に綴られたアメリカン・ヒストリーをシミジミ楽しめ、こういう小品でも素晴らしい映画を作ることができるアメリカ映画の底力を感じる作品。

近年、観客受けばかりを狙っているオスカーなんてくそくらえだ。動画サイトを探してみてもらうしかないのだが、ひさしぶりにココロに染み入る「いい映画みたよ」と、強く勧めたい。

「アイアンクラッド」(12年 英米独)

「マグナカルタ」は受験勉強で言葉と年号だけはなんとなく覚えていたが、意味については全く理解していなかった。この映画は、英ジョン王がフランス軍との戦いに執着したため再三の戦いを強いられたイングランド貴族が反乱し、英国王の存続を認めることを条件に国民の自由を保障させた合意書が「マグナカルタ」だということをやっと理解できたのはこの映画のおかげ。もっとも貴族たちに従前の貴族特権を保障させること英国王が強制させられた文書という言い方をしている歴史の本もあるようだが、まあそういうことらしい。
とにかく、歴史背景をよく理解できた。歴史なんて、映画を見せてくれればよくわかる。年号なんて必死で覚えるんじゃなかった。

全編、ジョン王とその抵抗勢力との戦いを描いたものだが、大きな剣やマサカリで切られるわ手足は落とされるわは、グロ多すぎ。とはいえ、英国と英国王の歴史が血塗られたものだということを知ったのだが、興味深かったのがジョン王が映画の中で声高に叫んだ”神から授けられた王の血筋”。神ってなんだよ、権力者はみんなこういう言い方をしているよね。



2025年4月19日土曜日

ロバの耳通信「ようこそ、わが家へ」「火の粉」

「ようこそ、わが家へ」(13年 池井戸潤 小学館文庫)

通勤電車で横暴な割込み男に注意したことでストーキングされ嫌がらせを受け続けるマジメな会社員は、勤め先で営業部長の不正を指摘したことで、社長からまでも疎まれ居づらくなるハメに。読み進めるにつれ心理的にも八方塞がりに追い込まれてゆく会社員の気持ちは同情に値する。ただ、池井戸の小説は辛い、悲しいでは終わらない。

池井戸潤のウリは「痛快」「半沢直樹」(13年 テレビドラマ)も花咲舞大活躍の「不祥事」(16年)など、知ってる限りすべてハッピーエンド、勧善懲悪でキッチリ締めくくる。この「ようこそ、わが家へ」もそう。痛快で面白かったけれど、実生活はだいたい、腹立ちまぎれの悔し涙なんてことばっかりじゃないかな、フツーの人は。マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー、トーマス・ハリス、パトリシア・コーンウェル・・とかかな。

で、考えた。「ようこそ、わが家へ」もマジメな会社員を主人公にするのでなく、ストーカーなり、ワルモノ営業部長を主人公にしたら、もっと面白かったんじゃないかとか。マゾのワタシはハッピーエンドよりクライム・ノベルのほうが好きというだけのハナシなのだが。
ヒトによく聞かれる、好きな作家。ジャック・ケッチャム、花村萬月、沢木耕太郎、マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー、トーマス・ハリス、パトリシア・コーンウェル・・とかかな。

「火の粉」(05年 雫井脩介 幻冬舎文庫)

裏表紙の釣りは”私は殺人鬼を解き放ってしまったのか?”。無罪判決を下した男が退任した裁判官の隣に引っ越してきて、「善意の隣人」になる。筋立ては面白く、どんでん返しの後半を想像していたのだが、550ページの道のりは長い。たぶん始まるであろう後半の展開の前に、元裁判官の家の日常が説明される。隣人の善意を際立だせ、あとの物語の伏線になっているのだろうが、嫁姑問題、昔の恋人、墓、聞き分けのない幼子、などなど、まあ普通の家にはたぶんひとつやふたつ必ずあるであろうイヤなことが次々に明らかにされる。その嫌悪感にゾッとして読むことを躊躇し、目移りしたほかの本を先に読んでいたら、図書館の返却期限が来てしまった。
カミさんは、終わらなかったならまた借り直せば言うのだが、実のところ辟易してしまったのだ。イヤなことはなるべくやりたくない、負けるから勝負事はキライな根性ナシのワタシの性格は救いがたい。274ページ、ちょうど半分のところに栞。いつか、そこから先を読む元気をだすことができるだろうか。

2025年4月10日木曜日

ロバの耳通信「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」「バッド・ガイズ!!」

「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」(08年 米)

ずっと前に予告編だけ何度も見ていたのに、今日までついぞ見る機会がなかった映画。予告編や映画雑誌で、ジジイの顔をした捨て子の赤ちゃんが養老院で育てられ、年を経るにつれて若返るというおおまかなスジは知っていたが、主演のブラッド・ピットの演じるベンジャミンが予告編では予想もできないいい味を出していた。優しいメロディーで始まり、主人公の追憶とことわざのような警句モノローグで進んでゆく映画は「フォレスト・ガンプ/一期一会」(94年 米)を思い出した。

ジジイ顔で生まれ、ついには若返って死んでしまうベンジャミン。幼なじみでのちに妻となるデイジー役のケイト・ブランシェットが映画当時40歳ちかくなのに、若いバレーダンサー役で、これがとても若々しくてドキドキするくらいきれいで、ソロダンスシーンもメッチャよかった。ベンジャミンが若い頃(外観はジジイ)にロシアで横恋慕してしまう人妻役の英女優ティルダ・スウィントン(「フィクサー」(07年 米)ほか)の身についた上品さに、ワタシもまいってしまった。

年老いてゆくデイジーと若返りしてゆくベンジャミンの切ない思いが伝わってきたが、この何とも言えない複雑な感情、若いのにはわからないだろうな、きっと。「フォレスト・ガンプ」も何度も見たが、この映画もきっと何度も見ることになるだろう。うん、うまく言えないが、とにかく思い出に残るいい映画だった。

「バッド・ガイズ!!」(16年 ロシア)原題 War on Everyone

なぜか愛すべきドジ刑事役が多いメキシコ系アメリカ人マイケル・ペーニャ(ワタシは結構好き)、とスウェーデンのイケメン俳優アレクサンダー・スカルスガルドが性格真反対の悪徳刑事のペア役。人種差別やら、小児肥満問題などアメリカの社会問題をネタにし、シュールに苦笑いさせられる。これがロシア映画とは驚きだが、アメリカ大統領選挙での助け合い?とか見てると、もはや仮想敵国関係とも言えなくなった米ロだからこれくらいの揶揄はOKなのか。刑事が相手をするギャングがロシアンマフィア風、じっさいのところロシアンマフィアなんて映画でステレオタイプ化されたものを見るだけだから、当たっているかどうかわからないが、ソノ気取ったロシアンマフィアがラストでみんな殺されてしまうというなんともマヌケな自虐映画。まあ、退屈せずに雨の日を過ごせたからヨシとしよう。

2025年4月4日金曜日

ロバの耳通信「どれくらいの愛情」「黙示」

「どれくらいの愛情」(09年 白石一文 文春文庫)

4編の中編からなっており、3編目の‘ダーウィンの法則‘は特につまらなくて、途中で何度か挫折しそうになったが、本書の表題になっている書下ろしの‘どれくらいの愛情‘に、ああ、こういう小説を読みたかったとつくづく思い、噛みしめながら読んだ。
ぜんざい屋チェーンの社長とスナックに勤める若い女の恋愛物語を軸に、女の病気やヤクザの兄妹、青果屋夫婦、男の母親など多数の人々が絡むが、白石は軸をずらすことがないから混乱はない。面白いのは九州北部で昔からいる先生と呼ばれる「占い師」の語り。下北のイタコのようなものだが、九州のソレはもっと人々の暮らしのなかにいた占い師。昔は結構盛んで、病気、結婚、転居などで相談に乗ってくれる人がいて、私も祖母に連れられて行った憶えがある。とにかく、この先生と呼ばれる占い師が主人公に、病気について、恋愛について、親の愛についてなどを諭すところが私のココロに染み入った。幼い頃から身近な存在であった占い師との接触が、無意識に白石の小説の中の占い師の話により耳を傾けさせたのかもしれないのだが。

「どれくらいの愛情」でスナックに勤める女の名前が晶。九州の女らしく情の濃い男っぽい性格に描かれているが、「新宿鮫」シリーズ(90年~大沢在昌)の鮫島警部の恋人で元不良少女の名前が晶(しょう)で、こっちも男っぽい性格でついダブってしまった。ちょっとワルっぽい情の濃い女なんて男の理想なのかもしれない。

「黙示」(15年 真山仁 新潮文庫)

農薬散布していたラジコンヘリが小学生たちの中に突っ込み、農薬中毒になるとうセンセーショナルな出だしで読者のドギモを抜いた。アメリカ大資本による遺伝子組み換え作物を指摘し、中国による日本食品の買い占め、農協族の政治家の暗躍などなど、日本の食の問題を指摘しつつエンターメント小説に仕上げた真山の力量は買うが、いくつか読んでいるうちにちょっと飽きてきた。企業買収を題材にした「ハゲタカ」(04年)の集中力に比べ、その後の作品は、「問題の食い散らかし」が気になる。厚い本であれもこれもと盛られれば食傷してしまう。
「黙示」も出だしのラジコヘリ事故で読者を引き込むワザはいい。ここから農薬中毒をもっと徹底的に詰めたドキュメンタリー風に仕上げればいいものを、被害者の小学生が農薬メーカーの役員の子供だったり、病院に気弱な妻を登場させたりでドラマ仕立てにするからソッチに気持ちが流れるのだ。
web辞書によると「黙示」は”はっきりは言わず、暗黙のうちに考えや意志を示すこと。”あるいは、”キリスト教で、神が人に神意・真理を示すこと。啓示。”とある。「黙示」のほうが、ずっと心に響くことがあることを、知ってってこの題にしたのか。小説家に黙示を求めるのはパラドクスだとは思うが。

2025年3月30日日曜日

ロバの耳通信「眠れぬ真珠」「桜の下で待っている」「ザ・ブラックカンパニー」

「眠れぬ真珠」(08年 石田衣良 文春文庫)

いままで何作か読んで、面白かった著者だったし、叙情派を自称するワタシだから裏表紙の”最高の恋愛小説”の釣りに見事に引っかかってしまった。いや、面白くないとは言わないがこの違和感は何だ。読み始めたら、石田の作品であることを忘れるほどの「女性視点」なのである。男性作家が女性を主人公に書く、あるいはその逆の例もたくさんあるのだが、この作品、どうしても女性が書いたとしか思えない。40代の銅版画家が17歳年下の映像作家に惚れて、お互いの相手とひと悶着というのが大まかなスジなのだが、主人公も含め、やたらセックスや変質的なほどの女たちが出てきて、生臭い。エンディングはいい思い出を残すという中途半端な男らしさ。うーん、そこは残念。どうせなら最後まで女でドロドロのまま引っ張っていってほしかった。
何度かテレビドラマ化されているらしいが、奥様好みの昼メロ素材なのか。口直ししたいから明日は、図書館に行こう。

「桜の下で待っている」(18年 彩瀬まる 実業之日本社)

帰郷をテーマにした連作5編。文章が優しさにあふれていてなんだか染み入ったし、時々感じた男性とは違う強さのようなものに怖さも感じた。懐かしいばかりでない故郷の思いでを語るとこうなるのか。

ひさかたの改札口を振り向いて紺色の群れに君探す

いまになって思い出せばあんなに酸っぱくて、甘いことは先にも、後にもなかった。そんな思い出を持っていることだけでも幸せなのだろう。


「ザ・ブラックカンパニー」(17年 江上剛 光文社文庫)

ブラック企業のハンバーガー屋に勤める青年が友人たちと力を合わせ、カリスマ社長やオーナーの投資ファンドと闘う。まあ、面白い。が、面白いだけのエンターテインメント小説のハッピーエンドに食傷気味かな。新人俳優を主役にしテレビドラマ化されたらしい。

2025年3月20日木曜日

ロバの耳通信「小説・震災後」「愛と幻想のファシズム」

「小説・震災後」(12年 福井晴敏 小学館文庫)

ほかのフィクション作品とは大きく異なり、実際に起きた東日本大震災を題材にした「小説」仕立ての福井の主張である。”この世に「絶対」などありえない””どんなに苦しくとも現実を直視し、ありとあらゆることを極限まで突き詰めて考え、実現すること”を震災後に再三言い続けてきて、この本の解説でも繰り返している石破茂の主張とも齟齬がない。
子供たちにどんな未来を見せられるかと問われ、返事に困窮するだけではダメだと。ずしりと、重い。ただ、福井が主人公の口を通じて熱く語った”太陽発電衛星”は、どうかな。脱原発の代替案としての考えを持たないワタシに、福井の案を笑い飛ばす資格はないのだが。



「愛と幻想のファシズム」(90年 村上龍 講談社文庫)

テレビでやネットで見るくらいだが村上龍が好きじゃない。印象も物言いも。著名な作家なのに読んだ作品は少ない。「55歳からのハローライフ」(14年 村上龍 幻冬舎文庫)が気に入ったのに、「心はあなたのもとに」(13年 文春文庫)で裏切られ、図書館で手に取った「愛と幻想のファシズム」はキレイな本だったから、村上の新しい本が出たのかと奥付を見たら07年の27刷。そんなにたくさん刷られているのかと。

90年代を舞台にしているが、84年~86年の「週刊現代」の連載が元本だというから、30年以上前に書かれた本なのだと驚いたのは、昨日書かれたと言われても違和感のないことに、だ。アラスカを放浪していた青年”トージ”が政治結社”狩猟社”を立ち上げ日本を席捲するアナーキストともファシストとも呼べる主人公の数年を追った上下巻約1000ページの長編。こういう本を読むと、面白い本は快楽であり、麻薬みたいなものだと強く感じる。結局3日がかりで熱病のように読み耽った。連載小説らしく、同じ言い回しが何度も出てきたり、ストーリーの濃淡の激しさのためか、混乱したり、意味不明で途方に暮れたりもしたが、結局はキャタピラーで押しつぶしながら前に進む快感を十分に楽しんだ。著者紹介を見れば、未読の有名作品が多いのにあらためて気づいた。また、読みたい本が増えてしまった。

2025年3月10日月曜日

ロバの耳通信「ファントム 開戦前夜」「ザ・マミー」

「ファントム 開戦前夜」(13年 米)

ロシアの潜水艦にファントムという偽装装置ーほかの国、例えば中国の潜水艦の音を出す装置を乗せ、米国の潜水艦を核ミサイル攻撃させ米中の核戦争を起こさせようとしたという史実に基づき作られた映画、と思っていたが実際のところは、事実の部分はハワイ近海でロシアの潜水艦が行方不明になったということ「だけ」が事実らしい。事実に基づき作られた映画とタイトルのあとにそれらしい字幕がはいり、ああ、実話かと誤解してきたが、なんてことはない、映画の一部に事実が含まれているくらいの意味らしい。

とはいえ、映画はすごく面白かった。ロシア艦の艦長にエド・ハリス、ファントムを持ち込んだKGB役にデイヴィッド・ドゥカヴニー(「X-ファイル」(93年~米テレビシリーズなど)のモルダー捜査官)、副長役 ウィリアム・フィクナー(「アルマゲドン」(98年 米)シャープ大佐)ほか、有名な役どころを揃えてはいるが、なんといってもエド・ハリスの存在感はすごい。無名の音楽監督ながら、最高の効果音楽で閉鎖空間の音響とあいまってすごい緊迫感も味わえた。
潜水艦モノの映画は大好きで結構見てきたが、ベスト3を上げれば「U・ボート」(81年)、「レッド・オクトーバーを追え!」(90年)、「クリムゾンタイド」(95年)か。共通しているのは閉塞感と緊迫感、結末はわかっていても、手に汗握ってしまう。

「ザ・マミー」(17年 メキシコ)原題:Vuelven

”未体験ゾーンの映画たち”は、12年より毎年開催の映画祭。有名スターが出ていない、宣伝予算が出ないーつまりは”売れないだろう”という作品を集めてマイナーな映画館で見せている。今年は56の映画が出品され、「ザ・マミー」はその中のひとつ。ほぼ同名の「ザ・マミー/呪われた砂漠の王女」(17年 米)がトム・クルーズ主演で、テレビCMもガンガンやったのに売れなかったが、このメキシコの「ザ・マミー」はよくできた映画だったとワタシは思う。うん、ネットでの評判は良くなかったし、確かにハリウッド向きじゃない。

母親がギャングに誘拐され、ストリートチルドレンと一緒に生きるしかなくなった少女が、彼女だけにしか聞こえない母親の声に導かれ、ギャングと闘う。ストリートチルドレンたちの明るい表情は救いだが、そこでは警察の腐敗、誘拐、殺人。母親の声や死んだ仲間の霊の導きで復讐を果たすなんて、スティーブン・キング好みか。